Jesus-Feminist-11127.jpg
Ms.Rachel Held Evans


イエスさまはフェミストだった!」―2013年に発刊されたサラ・べッスィー女史による著『Jesus Feminist: An Invitation to Revisit the Bible’s View of Women』によって主張・社会キャンペーン化されている説。

(本書のはしがきは、有名なクリスチャン・フェミニストであるレイチェル・エヴァンズ女史が書いておられ、上の写真にみられるように、ジーザス・フェミニスト運動として、欧米のエヴァンジェリカル界に広がりを見せています。」 source




IamaJFA1127.jpg
source



―――――


Mary Kassian, The Feminist Gospel: The Movement To Unite Feminism With The Churchより一部抜粋




フェミニズムというのは、ニュートラルなトピックではありません。


多くの方々にとり、これは苦々しい思い、怒り、そして反抗心を掻き立てるなにかです。


またある方々はフェミニズムを娯楽、軽蔑、あるいは嫌悪感をもたらすなにかであると感じているかもしれません。


フェミニスト哲学は、女性・男性としての私たちの存在に関するある深遠にして重要な問いを発しています。


そして私たちの生きる理由および目的を定義すべくあるフレームワークを差し出しているのです。


--------


6811900594_64a69b601c_z1127.jpg
Christian Feminist Network, source






フェミニズムは物議を醸し出すものです。


というのも、それは実際的なレベルにおいて私たち自身の日々の存在そのものに触れるものだからです。


またそれは、強い感情反応を引き起こすなにかでもあります。


なぜならフェミニズムは私たち自身、そして私たちを取り巻く世界、そして究極的には私たちの神に対する私たちの個人的見解に真っ向から対峙してくるからです。


フェミニスト哲学のインパクトは、北米社会において顕著にみられます。


両性の役割、マイノリティー優遇措置、再生産テクノロジー、中絶、レイプ、虐待、デイケア、賃金の平等、、といった事柄に関し、私たちは日常的に、フェミニスト的観点に触れています。


またフェミニスト・イデオロギーはキリスト教会の中でも露見されます。


多くのキリスト教書籍、論文が発行され、「聖書は、教会の中における男女の役割に差異を設けてはいない」という主張を繰り広げています。


教会の中のリーダーシップのポジションに女性が就任することも今日では当たり前のこととなっています。


多くの教団・教派において、神学校での女性学のコース、フェミニスト神学、ジェンダー包括語、フェミニスト儀式などは寛大に受け入れられています。


------------


JFcollageC1127.jpg
source




確実にいえるのは、フェミニズムは今日着実に、キリスト教界に影響を及ぼし続けているということです


しかしその影響とはすべてがすべてネガティブなものなのでしょうか。


あるいはフェミニスト哲学のある側面などはキリスト教と正当に融合することが可なのでしょうか。


聖書的フェミニスト(biblical feminist)は、「聖書はフェミニスト哲学の中枢思想を支持しつつ、しっかり解釈できる」と主張しています。


また彼らは聖書が、信仰や実践分野すべてにおける最終的な権威であることを認めています。


リベラル派の宗教フェミニストとは対照的に、聖書的フェミニストは聖書本文の抜本的な修正や、救い・贖いといったキリスト教教理の中核の変更について、これらを拒否しています。


しかしながら、結局のところにおいて、こういった保守的な聖書的フェミニストたちは、リベラル派フェミニストたちとそれほど異なっているのでしょうか(訳者註)


彼らの解釈上の前提(presuppositions)や解釈方法は、はたして彼らの信じる聖書の教えを守る役割を果たしているのでしょうか。


これらは今日のプロテスタント諸教会が真剣に向き合わなければならない重要な問いだと考えます。


といいますのも、もしもフェミニズムとキリスト教が共存可能なのだとしたら、私たちクリスチャンは、両者を融合させようと試みるフェミニスト運動に抵抗すべきではないからです。


しかしもしも両者が共存可能でないとするなら――もしもどんな程度であれ、フェミニズムの存在が妥協を促すのなら――それならば、キリスト教会は、フェミニズムの提供する福音を断じて受け入れるべきではありません。




Mary Kassian, The Feminist Gospel: The Movement To Unite Feminism With The Churchより一部抜粋






訳者註: 「結局のところにおいて、こういった保守的な聖書的フェミニストたちは、リベラル派フェミニストたちとそれほど異なっているのでしょうか」という問いにおいて、ヴァージニア・モレンコット(1932-)女史の半世紀の歩みと変節は、私たち福音主義信仰に立つクリスチャンに大きな反省と警戒を促すものではないかと思います。

PicOmnigender20011127.jpg


決して交わることのない二つの川―私たちの応答【福音とフェミニズム問題】(最終回)







Bessey1127.jpg


サラ・べッスィー女史の『ジーザス・フェミニスト』に対する、相補主義クリスチャン側からの応答記事(Book Review):


Courtney Relssig, Jesus Feminist by Sarah Bessey


(*この書評の中でも述べられていますが、サラ・べッスィー女史は、その主張の根拠として、William Webb氏の「贖罪的な運動としての解釈法("redemptive movement hermeneutic")」や、相互恭順(mutual submission)の教えといった、典型的な対等主義の解釈を土台にしており、

その意味で、「イエスはフェミニストだった」という結論自体は斬新であっても、そこに至る解釈自体は、オーソドックスな福音主義フェミニズム路線であることがわかります。)



*「贖罪的な運動としての解釈法("redemptive movement hermeneutic")」についての詳説は次の記事をご参照ください。

ウェイン・グルーデム、「なぜ対等主義が前進しているのか?【中篇】 E 聖書の権威を拒絶し、リベラリズムへ向かわせる解釈メソッド


それから、対等主義者の主張する「相互恭順」についてさらに詳しくお調べになりたい方は、この記事をお読みください。







87a0b1177165e7ea8f5c0ab42fbc243c_201611271913036ee.jpg
source


enhanced-buzz-wide-7275-1404152808-13_20161127195405a05.jpg
source



神なき世界に生きる人間は、主権者なる神に代わり、われこそが人生における決定者そして主権者になろうとします。


それは一見、私たち個々人に自由と解放をもたらすものであるかのような印象を与えるでしょう。


しかし聖書、およびこれまでの人類の歴史が証明しているのは、人が神を主権者と認めず、神・人の「主従」が逆転するところにおいては、逆説的にも、自由の破壊がなされ、そして最終的な全体主義体制(totalitarianism)への道が開かれてゆくということです。


そのことを私たちは肝に銘じるべきだと思います。



新しい外観を装った全体主義への下り坂(ガブリエラ・クビー)【フェミニズム問題】

Peter J. Leithart, Gender Totalitarianism



罪のためのいけにえ(The Sin-offering)―ゲルハルト・テルステーゲンの信仰詩

礼拝賛美の聖さを求めるフランスの若者たち―新しい賛美Youtubeチャンネル誕生の証し("Richesses du répertoire chrétien")