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私たちは、北米に住むご夫妻を親しくしています。


そして、この家のご主人は相補主義の教会の長老(牧師)をしておられます。


さて先日、あるテーマでそのご主人に意見をうかがったのですが、彼はとても洞察力に富んだ返答をよこしてくださいました。


そこで私はこの方に、「もしもよろしければ、兄弟のお書きになったこの論文を私のブログに掲載してもよろしいでしょうか?」と許可を求めるメールを出したのですが、彼からは、ていねいに断りのメールが来、


「私の良心は、ブログ掲載を望んでおりません。しかし、なぜ私がそれを望んでいないのか、理由をお知りになりたいのでしたら、その時には謹んで理由を申し上げたいと思います」と律儀な返答がありました。


そこで私は、「どうかその理由をおっしゃってください。包み隠さず、あなたが信じていることをそのままおっしゃってください。」と兄弟に頼んだのです。


すると、今朝、その方から長文の返答がありました。


「あなたにこれを書くのが非常にはばかれ、躊躇しているのですが、、」と前置きがあった後、それでも彼は真っ正直に、ご自分の信じておられることを私に語ってくださいました。




長老の探求と結論



それを要約すると次のようになります。


この尊い主のしもべは、今年、ジェンダー・フェミニズム問題、およびheadshipの問題に正面から取り組み、聖書を熟読し、祈り、研究し、奥さまと共に彼の家庭における聖書的ガイドラインを作ったそうです。


しかし、その中でも難航した部分が、女性のblogging issueだったそうです。


どこにラインを引くのがみこころなんだろう?


女性のTV・ラジオ説教行為がアウトだということは容易に分かる。


でも、「電子文書活動」によって聖書を説明している女性ブロガーたちは、headshipの「枠内」にはたしているのだろうか。


結局、「音声」がないだけで、形は違えど、彼女たちもまた、電子版「講壇」に立って聖書を説いている、という風に考えられないだろうか?


こうして半年以上に渡って祈りと熟考を重ねた末、彼は「やはり(私を含めた)女性ブロガーたちは、聖書の指し示すheadshipの枠を超えている。」という理解に達したそうです。


それゆえに、彼は私のブログを読まないし、自分の書いた論文も女性である私のブログには載せない、ということに方針を決めたということでした。


(*私の主人は、この点で、この兄弟と意見を異にしており、クリスチャン女性のbloggingと、講壇/TV/ラジオ説教は二つ別々のものであり、bloggingとpreachingは違う、という見解に立っています。)


私がこの長老の意見を重んじ尊んでいる理由は、彼が長年、際立って聖く潔白な生き方をしている聖徒であるということ以外にも、


聖書の見方・解釈における「思想のスペクトル(幅)」という点で、彼のような立場に現在も尚とどまっている人はとりわけ注目に値し、その見解を傾聴すべきだと思うからです。



☆☆


少し脱線しますが、礼拝賛美のあり方の一つとしてExclusive psalmodyという立場があります。


これは公同礼拝の中で歌われる賛美を、みことば(=詩篇歌)だけに限定するという立場です。


現在でも、保守的なオランダ改革派教会、スコットランド長老教会などでは、(一般讃美歌をも奨励したルターと違い)、Exclusive psalmodyを重んじたジャン・カルヴァンに倣い、公同礼拝の時には詩篇歌だけが歌われています。




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さて、この立場の人たちはちょっと「行き過ぎ」「狭すぎ」「厳格すぎ」なのでしょうか。


私自身は、exclusive psalmodistではなく、通っている教会でも、一般讃美歌を歌っています。


しかしながら、500年以上に渡り、なぜ真摯な聖書主義クリスチャンたちの間で、exclusive psalmodyという立場が消えないのでしょうか。


私はそこの部分に関心を持ちました。


そして彼らの論文をいろいろ読み始め、彼らの主張に直接、耳を傾けてみることにしたのです。


そしてそこから分かったことが二つありました。


)確かに、使徒時代、初代教会時代の礼拝賛美の主体は、一貫して「詩篇歌」であった。


)彼らが詩篇歌だけを公同礼拝で用いたいと願う根本には、

キリスト礼拝においてできるだけ人間的なもの(人間のことば、人間の考え等)を排除し、純粋なる神の御言葉だけが宣言され、また聖徒の口から歌われることを望む――、

そのような神中心・みことば中心の礼拝を熱望する聖徒たちの心があったのです。




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Exclusive psalmodyが実践されている北米の保守改革派教会 (source




またそういった教会は一般に、「リベラリズムに傾きにくい」という共通した特徴を持っていることにも私は気づきました。


繁栄の神学、フェミニズム、○○運動、○○神学といった流行の波がわっと押し寄せてきても、こういった教会はぐらつかず、そうそう容易に同化もしません。



☆☆


おわりに



話が逸れてしまいましたが、私はこの長老を、exclusive psalmodyのような稀有な人物だと考え、彼のような人をとりわけ尊敬しています。


彼は私のblogging行為が、聖書の示すheadshipの枠を超えている、よろしくないと考えています。


人は、そして私は、自分が今見えている範囲でしか行動することができません。


私は主人と長らく話し合い、祈った結果、現在にいたるまで一応、女性ブロガーとして聖書のみことばやその周辺のテーマをこの世に発信しています。


しかしながら、私は同時に、自分が女性として、男性よりも惑わされやすい存在であり、その意味で誤謬を犯す可能性がより高いのではないかと感じています。


(しかしこれは他の女性の方々に適応されるものではなく、あくまで私という一女性の個人的所感です。)


ですから、他の方々に教理の検証を頼まれた際にも、いつも、自分の調べたその検証内容を、さらに、信頼できる男性教師(牧師)の方々に再検証していただくことをみなさんにお勧めしています。


同じコンプリメンタリアンの陣営内にもスペクトルがあり、幅があります。


そして私はこの「幅」を愛しています。


なぜなら、この幅は、聖書を神の言葉を信じ、それに忠実に従っていこうと最善を尽くしておられる聖徒たちの努力と誠実、そして人間としての有限性を表わす「幅」であると思うからです。


そして私も主人も、日々、主にあって、主を知る知識において成長したいと願っています。


もしかしたら、5年後、10年後、主人の見解に変化が生じ、長老と同様の結論に達するかもしれませんし、そうでないかもしれません。


ただ私としては、自分の上に立てられている地上の権威である主人が主に祈り、聖書を調べた結果、導かれた諸結論に、いつも「はい。そう致します。」と従える者でありたいと願っています。


読んでくださってありがとうございました。




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リベラリズムの道を歩んでいない対等主義の牧会者の方々へ(by ウェイン・グルーデム)

垂れ幕の内で―天的な礼拝の黙想

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女性からの発信

私自身も女性たちのブログによる発信は個人的なシェアリングであり、「説教に当たるものではない」という意見を持っていますが、こういった意見を持たれる方もおられるのですね。私個人はクリスチャン女性たちからの発信を極端に制限するのは、(ごく身近にいる姉妹たち以外の)クリスチャン女性の声が聞こえなくなるという弊害もあると思っています。聖書主義に立つ地理的に離れた場所に住む姉妹たちからの声は他の姉妹たちにとっても大きな励ましになっており、特に身近でそうしたクリスチャンフェローシップに恵まれない方々にとっては然りではないかと思います。

初代教会で一般賛歌が認められない時代が長く続いたのには、歌を通して逸脱や異端が広められる事例があり、それを防ぐ為という側面もあったと聞きます。確かにこれは考えさせられる問題です。

グレーゾーンの問題に接した際には線をかなり厳し目に引き、より「確実に安全なあり方」を模索する。厳しい保守教会にはそうした哲学がしばしば見られます。彼らがリベラリズムの台頭に対して非常に強さを見せているのはむしろ自然な事でしょう。ただ厳しい制限や制約の弊害もどこかにあるのではとも思います。リベラリズムや「何でもあり」という現代の潮流に聖書的価値観を持って抗しつつ、自分個人や教会に託された使命を模索する、其の中で異なるあり方を選ぶ兄弟姉妹に対しても敬意を払う、こうしたあり方が求められているのかも知れません。


名前: Sanae.T [Edit] 2016-11-29 07:33

Thank you♡


さなえさん、responseありがとうございます。本当にキリストのからだに属するということは、学びの連続であり、チャレンジがあるところにまた修正あり、再考あり、そして成長があると思います。

思うに長老のポジションは、例えば、17世紀のキリスト教西洋社会(教会)においては、聖書主義のクリスチャン男性としてマジョリティーに属するものだったろうと思います。そして初代教会でも。しかし21世紀においては、彼の立場は、マイノリティー中のマイノリティーです。

さなえさんがおっしゃってくださったように、個々人や教会に託された使命を模索しつつ、みこころを求めていくことが大切なのだと思います。

たとえば、教会は対等主義であっても、個人としては堅く相補主義の道を守っておられる方もいます。

あるいは逆に、(ギリシャのある相補主義教会の長老さんが言っていたのですが)、その教会の中に、一人どうしても講壇説教したがっている女性がいて、でも教会的にそれが許されていないので、彼女は、礼拝時の「預言」のセッションの時に、「預言」を通して「説教」する方法を見い出したそうです(笑)。

そうすると、結局、基本的な教会の方針は必須だけれども、一番大切なのは、私たち個々の姉妹の、主の前における「心の姿勢」なのではないかと思わされます。

―――

また主は私たち女性一人一人の強さ、弱さ、個性、性格、ニーズなどをご存知でいらっしゃり、一人一人に適合した霊的環境や助け人などを備え、私たちを奉仕者として整えてくださると信じます。

主人にもシェアしたのですが、私は昨日、この長老さんの長い応答レターを読んだとき、なんだかよく分からないのですが、魂の奥底で安心感、そしてほっとするなにかを感じました。

おそらく私のような者は、長老さんのような(21世紀の視点からみたら)super conservativeで敬虔な神のしもべたちにチェックを入れてもらいつつ、「絹子さん、ちょっとフライングしてますよ!」とブレーキをかけてもらうような位置にいるのが、一番、霊的に安全なのかもしれず、

またこれまでの自分に対する主のお取扱いをみても、それがdivine protectionであり、私という一姉妹にそなえられた、幸せの道なのだろうと思ってます!e-113

名前: Kinuko [Edit] 2016-11-29 20:00

聖霊派の微妙な事情

預言のセッションで説教を試みるという女性のおられる教会は、おそらく聖霊派ですね?何となくその雰囲気が分かるような気がします(笑)教会にもよると思いますが、聖霊派の場合しばしば預言、証、説教の境目が微妙であるような気がします。

聖霊派は総じてリベラリズム・フェミニズムを認めていません。しかし多くの教会が大なり小なり女性の説教を認めています。「彼女には間違いなく神様からの召命がある」と認められて説教を許された女性たちは、本来は(牧者ではなく)預言者として召された人たちなのかも知れません。ただ日本にも女性牧師を認めない聖霊派の教会は存在します。女性伝道師が女性を教える事は容認するが、全体への説教は認めないというスタンスのところもあったように思います。

女性は弱い器であるという事が聖書にも書いてありますが、それは悪い事ではないと思います。近現代様々な理由で女性たちはこの弱さを嫌い、「克服すべき悪」だと見なして来ました。そして残念ながら男性たちもしばしばその弱さを否定し攻撃してきたように思います。「力がない」「稼ぐ力に乏しい」「偉人は殆ど男性ばかり。女性は大した仕事をしていない」「だから女性はダメだ」
創造の秩序の否定、女性への制限の否定、フェミニズムの勃興・・教会でのそうした現状はもしかすると、こうした人間側の長年の罪の蓄積によって必然的に生まれてしまったつけなのかも知れません。

教会の方針は必須だけれどもそれぞれの姉妹、個人の主の前における心の姿勢が一番大切、私もそう思います。














名前: Sanae.T [Edit] 2016-11-30 10:05

女性クリスチャンのブログ

Kinukoさん こんにちは。お久しぶりです。

いつも様々なテーマを意欲的に取り扱っておられ、驚きを感じ、また尊敬をしています。
女性クリスチャンのブログは全く問題ないのではないでしょうか。特にkinuko姉は、教師の立場としてではなく、キリスト者に必要と思われる有益な情報を、提供してくださっており、またブログを通して、世界中のクリスチャンの良き交わりの場を作りだしておられるのです。そして、kinukoさんは、反対の考えをもつキリスト者に対して、いつも敬意を表し、謙遜な思いで、その反対意見を聞いています。主がお許しになる限り、ブログを続けて欲しいと思います。

名前: エレミヤ [Edit] 2016-12-04 14:45

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