愛するみなさん、本当にお久しぶりです。お元気にしていらっしゃいますか。コメントをくださった兄弟姉妹、ありがとうございます。


先月、「クリスチャン女性とブログ」という記事の中で触れましたように、私は、長老のお言葉(忠言)を重く受け止め、その後、自省と振り返り、そしてみこころを求める祈りと黙想の日々に入りました。


奥さまから聞くところによると、長老は長老で、私に忠言のメッセージを送信した後、


「主よ。私はもしかしたら、こういった、主のために献身的で情熱的な姉妹たちの『つまずきの石』となっているのでしょうか。私があなたゆえに立ち続けようとしているこの立場は、あまりにもドグマティック過ぎるのでしょうか。ああ、私はむしろあなたにではなく、サタンの道具として用いられ、あなたのご計画を妨害しようとしているのでしょうか。」


と死ぬほど悩み、「主の言葉に忠実でありたい思い」と「自責の念」との狭間で苦悶の日々を送っておられたそうです。


私は、それを知って号泣し、奥さまを通して、


「いいえ。長老、あなたは、聖い神の道具として用いられています。私はあなたが『何に対して』闘おうとしているか、何ゆえに、あえてそこにとどまろうとしているのか痛いほど分かりますし、一連の出来事は、神の摂理の下に起こっていることを信じています。私は今、これを通して主が私に何を学ばせようとしているのか、慎重に耳を傾けたいと思っています」


と長老を激励しました。

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ブログを続けるのがみこころなのか、それともやめるのが最善なのか、さらに、もしも続けるのがみこころなら、「どのような形で」続けるのがもっとも主をお喜ばせするあり方なのか、、、そういったことを真剣に主にお尋ねしました。


そうした結果、主のみこころに関する、現時点(2016年12月16日)での自分の理解において、私は次のように導かれました。それは、もう一つ別の新しいブログを開き、その場で自省の実として生じた方針変更(修正・改革)を表わしていくという道です。


「(表わしていく)選択」と書かず、「道」と書いたのは、これが最終的な私の「結論」ではなく、on-goingなみこころ探究のプロセスそのものであることを、みなさんの前に告白したかったからです。みなさん、これからもどうぞよろしくお願いします。


このブログを開くに至ったいきさつ(証し)




相補主義だけれども、「祈りのベールの教え」については未だ模索中の牧会者の方々へ(by ジェレミー・ガーディナー)