黒い土の下に横たわる やせて青白い根。


彼は 死んでいるのでしょうか。



――いいえ。生きています。






知られず、

忘れ去られ、

見捨てられたかのよう。




――ええ。それでも、彼は生きています。


生きています。






空の光をみない 地中深くで


彼は今、

神に出会っているのです。






ですから 彼を大切にしましょう。


彼をいたわりましょう。






そして彼の横たわっている土に


じょろで やさしく


水をかけてあげましょう。












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地に落ちて死ぬ(かつて生きた世界の
すべてのものに別れを告げる)
・・・・そういう一粒の麦となることを
もし拒否するならば、
その時わたしは
カルバリーの愛をまったく知らない。




インドへの宣教師を志願するある若い女性が、手紙の中でエミーにこう尋ねました。「宣教師になるということはどういうことでしょうか。」

エミーは答えました。「宣教師人生というのは、死ぬ機会が与えられた人生ということです。」エミーは生涯、二度と祖国に戻りませんでした。そしてインドの地で53年間奉仕した後、1951年、その地で召されました。






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夜の静寂さがただよう中、


私を今、取り囲んでいるのは沈黙以外、何もありません。




周りの世界は皆、寝静まっているのに、


私だけはこのように眠ることができずにいます。





お父さま、今のこの状態を言葉で


言い表すことはできません。




でもあなたはこういう自分を理解してくださっています。





どうか私の心を探ってください。




おお主よ、

私の心の痛みを取り除いてください。




苦しみを取り除いてください。



今、自分の上にのしかかっているこの重荷を

取り除いてください。





そしてああ、今この時、私の心に、


あなたの平安と静けさが


ふたたび回復されますように。







愛するイエスさまの御名によって。

アーメン。








詩篇94:19


私のうちで、思い煩いが増すときに、
あなたの慰めが、
私のたましいを喜ばしてくださいますように。









インストルメンタル 賛美曲









ζωτική(ゾティケー; lively, cheerful, いのちに溢れた、生き生きした、快活な)



<ζωή(ゾエー; 命)

ー霊的・天的いのち。復活であるキリストを通して生命の源泉である神から受けて維持される命。






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さんさんとした陽の光をうけ、

牧場をいっぱい走りたい。





子牛のように はね回り

のびのびと 無心に

かけ回りたい。






ばかみたいに突進して

ぶつかって 転んで 泣いても

また 走ろう。







輝く日光と 一面にひろがる緑の大地。



どこまでも どこまでも 

続いている。








私は 走りたい。



笑いながら 泣きながら 

どこまでも 走りたい。







夢をみ 虹を追いかけながら 


花の絨毯の上を

どこまでも 走っていきたい。





――このいのちの続くまで。


このいのちの続くまで。
 









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静かに。
おお 全地よ、静かに。



月の明りがともり、

わずかな星々が
淡く、
おぼろげに光を放っている。



そして、紅のゆり、白色のゆりが
神々しい聖人のように
おのおの たたずんでいる。




ほら、影のようにおぼろで、
夢見ごこちの あの木々を見てごらん。

澄んだ空気の深みにどっぷり浸かっている。




さあ、そよ風のささやき声に耳を傾けてごらんなさい。

祈りをささげる人のように、
こんなに優しくささやいている。





静かに、
おお、全地よ、静かに。


ここは聖なる地だから。


月の光によって洗われ、
雪のように混じり気のない地。



かつて、園の中で、
月光の王冠を戴きし主にまみえる。



おお 月光よ、ふたたび
この方を 王冠で飾りなさい。



そして、ゆりよ、
お前たちの聖鐘を今、響かせなさい。




おお 愛の王、そして痛みの王よ、


汝はここにおられます。

インマヌエル。






Amy Carmichael, Hush
私訳







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ちいさい羊。
愛しい羊。



まるくなって
うずくまっている。




沈む夕日と、
家々の灯り。


語らいと
団欒と笑い声。




ぼくは ここにいよう。
ここでじっとしていよう。



――――


愛しい羊よ、
目を上げてごらん。



ほら、ここに
優しいまなざしがある。



愛らしいおまえを
みつめる 

ひとつのまなざしが。




家なき子、わが子よ、

この世のどこにも 住み処をもたない 
わが宿なし子よ。




目を上げて わたしを見てごらん。

わたしの心を見てごらん。




ほら、ここに 家があるから。

――おまえの永遠の家が。







黙示録22:1、2a


御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。

それは神と小羊との御座から出て、

都の大通りの中央を流れていた。





神の喜びをたたえた栄光の川。


とこしえなる神の 至福の泉。





荒涼としたわびしい荒野を

歩きつづけてきた私たち。


――もはや永遠に渇くことはない。




おお この光景を

どんな言葉で言い表すことができるのだろう。




川の岸べに、


弱っている者、

疲れ果て

力を失ってしまった者たちが、


続々とやって来、

喜びの流れから 水を飲んでいる。





「愛する者たちよ、心ゆくまで飲みなさい。」


甘美にしてしずかな声が語りかけている。



「来て、いのちと愛と栄光に満ち満ちたこの水を

心ゆくまで飲みなさい。」





今、私たちは このお方の御顔を仰ぎ見ている。



ああ、ここにおいて

あらゆる渇望のうめきが、

永遠にしずめられる。





天において、

この方以外にだれを持つことができるだろう。



そして地上において 

汝以外にだれを求めよう?





ここに来る道程で味わってきた

あらゆる困憊、かなしみが、



輝かしい主のご臨在の中で

ついに消え去った。


――太陽の前に消える 夜のように。





否、沈鬱や暗やみだけではない。


これまでの悦びでさえも 

もはやそこにない。




輝く朝日を受けし星々のごとく、


黄金の日の中で 

それらは自ら消え去っていった。





そして、私たちの前には、唯一、そう、ただ唯一、


曇りなき光輝につつまれ、

キリストが立っておられる。




御頭には栄光の王冠、

そして御手には、釘のささった跡。




おお そこにおいて、


汝の受難の奥義、

汝の十字架を

私たちは 見ている。





そして そこより

神の喜びをたたえた川、


新鮮にして けっしてよどむことのない自由なる泉が、

湧き出ているのだ。





私たちのために 無限の価で得られし

永遠なる歓びの水。





見よ!砂漠は 神の園。

そして荒野は パラダイス。




この十字架と栄光から

目を背けることなど だれができよう?





砂漠にいる 旅びとたちは、

そこにおいて、

満たされるのだ。


――そう、永遠に。






T.P. Rivers in the Desert,
私訳




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そこで、彼らは問うた。

「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。


彼は、「いや、そうではない(I am not)」

と言った。


ヨハネ1:21a






「私はそうではない(I am not)」

おお、人の唇には受け入れがたい言葉――



「私は何者でもない(I am not)」

おお、私たちを再び神の元に導く言葉!




そして、かの麗しき隠れ家に至る

小道を知る言葉。



嵐を避ける避難所、

そして暑さから身を守る木陰。




天のことば。

――世の賢人には隠され、

子どもたちに明かされる言葉。




偉大なる教訓を含みし

「私は何者でもない」という一言。





人間の心―。

汝の母語は他にあるのだ。



そしてこれは何千という人種によって話され、

互いにみな、似通っている。





「私こそ一角の者である(I am)」


――私こそ富んでいて、賢く、敬虔な者――

そう、それこそが自分なのだ、と。




そして、「私こそ一角の者」であろうと、

人は生き、労苦している。




そう、「私こそ一角の者」であらんと、



人は死に、

挑み、四苦八苦し、


すべてを犠牲にしてでもそれを得ようと

血眼になっている。



――ああ、数々の骨折り、疲労、束縛、

罪、悲嘆、そして痛みよ。






祝されし福音書には、


富んだ一人の男が

主イエスと弟子たちを宴会に招いたことが

記されている。




「この預言者をもてなそうではないか。」

そのように富者は思った。




しかしありあまる財産に囲まれつつも、


この人には、「私は何者でもない。」という心が

欠如していた。






そこに涙で泣きはらした

一人の罪深い女がやって来た――。



「私は何者でもありません(I am not)」

彼女の心はそう言いつつ、

主をひたすら見つめていた。





傷つき、

ぼろぼろに損なわれつつも、



御使いたちにまさる座におかれ、

太陽よりも明るく輝く 彼女の心を、


主はご覧になっていた。




「私は何者でもありません」――


このお方の前にちりに伏し、


彼女の心は

敬拝の喜びに満ちた歌を歌いつつ言った。




「そうです、汝こそがとこしえまでに

全てのすべてです」と。






なぜなら主の御心は、

ご自身のさまよえる この小さな羊の心に語りかけ、



永遠の愛のうちに、こう仰せられたからだ。

「『わたしはある』という者である」と。





もはや永久に彼女は渇くことがない。

彼女に必要なすべては与えられているからだ。




主ご自身以外に、

この地上に彼女はだれをも持っていない。



天におられるこの方以外に、

だれをも持っていない。




おお天的な報酬は、

永遠の相続地は、なんと麗しいことだろう。




ああ、願わしくば私が、


キリスト、このお方のためだけに、

永遠に――

とこしえに「何者でもない」者であらんことを!






Heinrich Suso, I Am Not
私訳