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「クリスチャン女性が神学的な意見を述べたり書いたりすることは、望ましくない行為なのでしょうか?」という記事をきっかけに、主はみなさんとのすばらしい分かち合いの時を与えてくださいました。そして、気づいたのが、

)この点で葛藤しているのは自分だけではないということ、

)同じ相補主義、同じベールの姉妹同士であっても、この領域においては若干、それぞれに意見のヴァリエーション(多様性)がある、そして、

)どの姉妹も皆、例外なく、神を畏れ、聖書の教えに忠実でありたいと心から願っている、



という事でした。

またある読者の方が「無理せず、ゆったりと」と言ってくださったことからも、私は時にかなった助けを受けました。(ありがとうございます!)

ですから、こういったグレーゾーンの領域の問題に関しては、なるだけ即断は避け、あわてたdecisionも避け、他の女性たちの視点に耳を傾けつつ、(そして、ちゃっかり彼女たちとの会話も楽しみつつ)、「無理せず、ゆったりと」、御霊の導きを求めていこうと思っています。

この点で、私は今回、ちょっぴり成長できたかも、、しれません。

それでは、これから楽しい二つのインタビュー記事をご紹介します。

最初の姉妹は、50代の既婚女性(アメリカ)、そして次の姉妹は、20代の独身女性(フランス)です。

二人とも、聖書信仰、そして(教会および家庭における男性のリーダーシップを認める)相補的な信仰、そして祈りのベールを実践しているすてきな女性たちです。

視点の異なるお二人のインタビュー記事を、私は今日あえてパラレルにみなさんにご紹介しますね。


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アメリカの美しい自然、ヨセミテ自然公園


:ルーシーさん、読者のみなさんに自己紹介してくださいますか?


:こんにちは。ルーシーと申します。私は米国在住のクリスチャンの妻であり母です。夫ブライアンと結婚して28年になります。

子どもは6人です。男の子が5人と、女の子1人。一番の上の子は26歳で、そして一番下は13歳です。

私たちは小さな無教派の教会に通っています。聖書信仰の教会です。

この教会が真理として保持しているものの一つは「かしら headship」に関する相補的な聖書の教えです。そして、その教えを実生活の中でどのように適用させ、生きていくことができるのかを祈り求めています。

二年ほど前、私はheadcoveringmovement.comというサイトに出会いました。

そこでは1コリント11章1-16節に基づく「かしら」や「被り物」に関する聖書の教えの深い学びがなされています。

そこでKinukoのような被り物を実践する姉妹たちに出会い、彼女たちと友情を深めてきました。

またこういった領域(聖書的男性像・女性像や被り物)で葛藤を覚えている方々が祈りリクエストを提出してくださっており、私たちは毎週月曜日に皆で心を合わせとりなしの祈りをしています。


:ルーシーさん、最近、仲間のみなさんから、「女性はインフォーマルなセッティングであっても(例:ブログ)、神学的な書き物や議論は控えるべきではないでしょうか?」という建設的な批判が私に対してなされています。

私は、本当に心から、神様が元々デザインされた女性へと変えられていきたい、そして聖書的女性像を求めたいって思っています。

でも、自分はクリスチャン・ホームで育ったわけでもなく、これまで身近な所で、相補的なクリスチャン女性の模範をみたこともほとんどありません。

そのため、多くの領域で、正直、ほんと、どうしていいか分からないって思うことがよくあるんです。

そこで、ルーシーさん、私に正直に言ってください。

慎み深いクリスチャン・レディーが、神学的な議論に参じることはやっぱり有害(harmful)なのでしょうか。そうすることで、私たちの女性らしさ(femininity)はダメージを受けるのでしょうか。


: ええ、あなたからのこの問いを受けて、私自身、深く自分の心を探ってみました。

そして主人にもそのことを話しました。そして主人とも話し合った結果、私たちがたどり着いた結論は、やはり、女性が神学的な議論にかかわるのは聖書的ではないということです。

たしかに神さまの目に、私たち女性は非常に価値ある存在であり、聖書全体を通して女性も男性と同じように尊く用いられています。

しかしながら、聖書を断片的にではなく、全体的にみた時、導きリードするのは男性の役割で、恭順であるのが女性の役割だということが御言葉から示されることではないかと私たちは考えています。

「それは有害なのでしょうか?」「それは私の女性らしさ(femininity)にダメージを与えるものなのでしょうか?」・・・・

私の乏しい経験から申し上げますと、、そうですねぇ、、、ええ、神学的なテーマであなたが議論に熱くなることで、やはりあなたの中の女性らしさはダメージを受ける可能性があると思います。

そして議論好きな女性だとみなされてしまうかもしれません。

あるいは主人の言うことに耳を貸さない女性、何が何でも自分の意見を押し通そうとする勝ち気な女性、、、だと。

そしてそれはあなたのご主人に不名誉をもたらしかねません。

また、「彼女のご主人は弱いリーダーシップしか取れないのではないか」という定評を受けるかもしれません。

このテーマは本当に多くの聖書教義を包含していると思います。

私たちがここで触れているのは、聖書の中で述べられている男性および女性の役割に関する非常に広範囲に渡るテーマ領域の一つにすぎないでしょう。

これはとても興味深い学びであり、今日のキリスト教会で今後より一層必要とされてくる教えではないかと思います。

今日の文化潮流にあって、「恭順なクリスチャン女性」というのは大衆受けするスタンスではありません。

しかし私たちは人を喜ばそうとするのではなく、やはり私たちの神様を喜ばすことに心を注ぐべきだと思います。

それを可能にする一つの方法は、主の御言葉に従うことにあると思います。


:率直なご意見をありがとうございます。さて、話はがらっと変わりますが、ルーシーさんのご主人と息子さんたちは、野に行って、食用のためにシカを狩猟しているそうですね!

前から訊こうと思っていたのですが、シカの肉はいったいどんな味がするのでしょう?


:うちの主人も息子たちも皆、ハンターなんです!シカ狩りがほとんどですが、野ウサギや七面鳥を捕る時もあります。

一般に野生の動物の肉は、お店で買う肉類と同じだけの脂肪分は含まれていません。なぜなら、野生動物は草原でとれるものだけを食べているからです。

シカ肉というのは脂身のない肉で、ちょっとドライで独特のにおいがする感じです。

私はたいがい、シカ肉を脂身のある他の肉(例えばベーコン、ロースト・ビーフ)と一緒に調理しています。

そうするとおいしさが増します。そうねえ、ビーフに一番味が似ているかしら?

少しくせのある味なので、なじむのにやや時間がかかるかもしれませんが、一度慣れるや、とってもおいしく感じられるようになりますよ!


:ルーシーさん、ありがとうございました!


(その2)につづきます。

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その1)からのつづきです。


1834年3月17日

今日、私はカボット牧師の所に行った。

でも彼はあいにく外出していたので、奥さまのカボット夫人と少しだけお話しようと思った。

(でも、自分の悩みについて彼女には言わないって心の中で決心しつつ。)

でもでも不思議なことに、カボット夫人は、またたく間にそれを私の内から引き出し、

しかも――夫人はそんな私の悩みを聞いてきっと眉間にしわを寄せ、深刻に憂うだろうって予想していたのに――、

なんと彼女はワッと吹き出し、笑い始めたの。もちろん、すぐに笑い止んだけど。

☆☆

「愛しいケーティ。吹き出してしまってごめんなさいね」と彼女は言いました。

「でもね、私もかつて、そんな取り越し苦労をさんざんしてきてね、、それを思い出したんですよ。

あの時から思うと、人生はね、今、すごく違った風にみえるわ。――本当に違った風に。

ほらね、ある人が最近、畑に種を蒔きました。

でもその人は、自分の畑からすぐに芽が出ないことに驚きショックを受けているの。

なぜって、長い間、労苦し収穫を待ってきたお隣さんの畑にはもう豊かに実が生っているから。

あなたの悩みはそんな感じじゃないかしら?」


「それじゃあ、だんだんと時が経つうちに、私も、周りにいる善良な人たちみたいに感じたり、考えたりできるようになるっていうことですか?」 私は訊ねてみました。


「そうですよ。今ある小さな領域で最善を尽くせばそれでいいんです。

そして神様があなたに与えておられるものに感謝し、それを大切にし、祈り、そして瞳のようにそれをお守りなさい。

気づかないほどわずかではあっても、でも着実に、それは成長していきますよ。」


「でも、私、待ちたくないんです。」 がっかりし、私は彼女に言い放ちました。

「最近、すてきな本を読んでいて、、、小説じゃなく、これまでに実在した聖徒たちの伝記なんです。

それを読んで私、すごく感動しました。

そして私も彼らのような、そんな美しい英雄的資質を持ちたい。

真に崇高で、自己犠牲的な行為に邁進したいって強く思うようになったんです。」


「もちろん、そういう時は来るとは思いますよ。多かれ少なかれ、私たちは皆、自分の望むものを得るものですから。」 夫人は言いました。


「本当にそう思いますか?

それじゃあ、ええと、私が最も望んでいることは何かしら?

ああ、そうそう、私、長居し過ぎてますか?カボット夫人、なにか他に用事があられますか?」


「いいえ。」 彼女はやさしく笑顔で答えました。

「私はね、次のことを体得したんですよ。――今、目の前にいて私を求めている人こそが、私自身の望む人である、と。」


「そう言っていただいてとてもうれしいです。

それじゃあ、お言葉に甘えて。

まず、私は、本当に心底、良くなりたいんです。しかも普通の「良い」のレベルじゃなくて、、その、、」


「尋常でないレベルの『良さ』ですね?」 そう言って、夫人が助け船を出してくださいました。


「ええ、まさにそうなんです。

そして申し分のないほどの幸せを求めています。

それから、もちろん、快適な家。

それに自分のことを愛してくれる友達もいなきゃいけません。

――そう、つまり自分と似たような趣向を持つ友だちのことです。

えっ、、、カボットさん、どうして笑っておられるんですか?

私、何か変なこと言いましたか?」


「いえいえ、あなたのことを笑っているんじゃなくてね、

なんであれすぐに全てを掴むことができると考えがちな、人間のあわれな性質について考えていたんです。

もしも今あなたが言ったようなことが今すぐに全部与えられるとしてごらんなさい。

そしたら、あなたの熱望している英雄的資質(heroism)は、

いったいどこで開拓できるというのですか?」


「そう、そこなんです。そこで私は葛藤しているんです。」


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「もちろん、申し分がないほど幸せで、快適な家でハッピーに過ごし、あなたのことを愛し、ほめてくれる友達に囲まれていたとしたら、、、」


「おお、カボットさん、私、友だちが自分のことを『ほめてくれる』なんて言いませんでした。」


「愛しいケーティ、でも、それが結局、あなたの意味していることだったんじゃない?」


〈うん、、、たしかにそうだったかもしれない。〉 私は心の中で思いました。


「ほら、たくさんのお友だちがいて、尋常でないレベルの良さに恵まれて、

いろいろ美しく魅力的なものに囲まれ、、、

そうすると、あなたの人生は間違いなく、

崇高さを逸する危険に陥ると思いますよ。」


「そんなことになってほしくありません。」 私は深く物思いに沈みながら言いました。


「それじゃあ、仮に、あなたが、毎日の家での小さな日課を、

忠実に、静かに、根気強くこなしていく今の生活に感謝し、

一つ一つの小さなわざを、

神様に対するように為していくと考えてごらんなさい。

そうしていくうちに、おそらく、あなたは

さらなる「英雄的人生」を送るための力を得て行くことができるでしょう。」


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「でも、私、どうしていいかわかりません。」


「家でお母さんに言いつけられた仕事はなにかある、ケーティ?」


「はい。自分の部屋の整理整頓と、

それから、客間のそうじをしなさいってお母さんは私に言ってます。」


「それじゃあ、自分の部屋を、レディーにふさわしく、きちんと片付け、客間のほこりも毎朝、はたくことが大事ですね。」


「ああ、それじゃあ、うちのお母さん、そのことをカボットさんに告げ口していたんですね。」


「いいえ、あなたのお母さんは、この事について私に何もおっしゃっていませんよ。」


「えーと、それなら、、」 そう言って笑い赤面しながら、私は言いました。

「実をいうと、私、部屋の整頓、あまりうまくできていないんです。

しかも、客間のそうじも「する、する」って言いながら、

結局は、母がするはめになっています。」


「お母さんは、イライラされませんか?」


「ええ、もちろん、私のせいで、すごくイライラしてます。」


「それならね、ケーティ。あなたのヒロイズムの第一歩は、まず、

こういった小さな事をしっかりやって、そしてお母さんを喜ばせてあげることですよ。

つまりね、神様をお喜ばせすることの次に大切なあなたの責務は、

お母さんを喜ばせ、そしていろんな方法で、彼女の人生を甘美なものにしてあげることです。

ケーティ、このことを覚えておいてね。

――真のヒロイズムそして自己犠牲の人生は、こういった小さい世界の中で始められ、そこに礎石が置かれなくてはならないっていうことを。」


「神様は、そういったささいなことにも目を留められるのでしょうか?」


「おやまあ、愛しいケーティ。

私が若いクリスチャンに一つの真理を語るとしたら、それはねーー、

神様は、もっともささいな私たちの行ないに目を留められる方であること、

そしてみずぼらしく、ひどくつまらないような種類の小さな奉仕を受け入れてくださり、

もっとも弱々しい祈りにも耳を傾けてくださり、

そして、私たちの断片的で不完全な願いや、良い行ないへの試みでさえも、

親のような愛情をもって配慮してくださるお方であるということです。

おお、どんなに神様が私たちのことを愛しておられるのか、

そのことをほんの少しでも知り始めたのなら、

私たち被造物は、

今とはどれほど違ったあり方をしていることでしょう!」

ーーー

〔帰宅後〕

カボット夫人の言ってくださったことの全部は理解できなかったけど、彼女の言葉によって私は自分がすごく引き上げられるのを感じた。



―以上、Stepping Heavenwardからの引用でした。

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追伸です♡

こういった彼女の霊的旅路を知った上で、もう一度、かの有名な讃美歌More Love To Thee O Christに注目してみてください。

歌詞にこめられた意味が新鮮な光を放ちつつ、私たちの心に響いてくると思います。またこのように一人の魂に働きかけ、成長を助けてくださる神様の御働きに対する感謝と賛美の念が湧き上がってくると思います。






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イエス、最愛のお方。
今、あなたの御答えを
感じていますー
あなたは 
私のものであると!

「このお方は私のもの」―エリザベス・プレンティスの信仰詩より



この詩の作者であるエリザベス・プレンティス(1818-1878)は、有名な讃美歌「いのりまつる」(More Love to Thee, O Christ, 1869、聖歌263)を作った女性でもあります。

このブログでも、主への情熱的な愛や飾らない自分の心情をつづった彼女の信仰詩をすでにいくつか取り上げています。

もっと近くに(Nearer)――エリザベス・プレンティスの詩と祈り

私は悲しみを知っている―エリザベス・プレンティスの信仰詩

夜―エリザベス・プレンティスの信仰詩

谷川の流れを慕い求めて―エリザベス・プレンティスの信仰詩

悲しんでいる姉妹へ―エリザベス・プレンティスの詩

夕暮れ時に、光が宿る!―エリザベス・プレンティスの信仰詩



また彼女は詩作だけにとどまらず、子どもや若者向けの信仰小説も数多く残しています。

今日、みなさんにご紹介したいのは、その中でもまた格別にすばらしい彼女の自伝的小説Stepping Heavenward--One Woman's Journey to Godliness(「天路に向かいつつ―ある女性の霊的旅路」)です。

この小説は、キャサリンという一人の少女の日記で構成されています。

神様のこと、信仰のこと、両親のこと、ノン・クリスチャンの男の子との恋愛と破局、結婚、出産、同居するようになったお舅さんやお姑さんとの緊張関係、病気、子どもとの死別、、といった人生のさまざまな出来事を、感受性豊かな一人の若い女性の視点でとらえています。


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本の表紙の挿絵です。


私が共感するのは、彼女のキャラクターです。

キャサリン(愛称:ケーティ)は、いつも一生懸命です。でもいつも失敗してしまいます。

また、All or nothing的なバランスのなさと、思慮のない勢いが時に彼女にフライングを起こさせ、そして彼女は落ち込みます。

でも、その時々に応じて、牧師さんや、周りの人々が彼女に良い助言を与えてくれたり、助けてくれたりして、そうやって少しずつ彼女は成長していきます。

では実際に、この小説を味わっていただくために、いくつかの箇所を訳して、みなさんにご紹介しますね。

1834年3月14日 ケーティ、 19歳


ああ今日、すごくがっかりした。

もし神様が私を本当に愛していて、私も神様を本当に愛しているのなら、毎日、少しずつ成長してしかるべきじゃない?

でも、向上のきざしなんて、ちっとも見られない。

跪いて祈ろうとしても、何も感じずバカみたいにぼーっとしているか、もしくは「ああ、あれをすべきだった」とか「これから何をしよう?」とか、余計な思いで頭がいっぱいになってしまう。

こういう点において、私みたいな人は、世界中どこを探してもいないんじゃないかなって思う。

そうかと思うとある時には、敬虔な気分になって、滝のように涙を流しながら熱心に祈れたりもする。

そうすると、「ああ、こんな深い祈りをする私を見て、神様はさぞかし喜んでくださったにちがいない」とたちまち、有頂天になる。

そうして意気揚々と階下に降りていくや、召使のスーザンが私の楽譜を別の場所に置いていたことに気づき、それで私は頭にきて彼女に文句を言ってしまった。

ああ、すごく恥ずかしい。

私は自分がよちよち歩きを始めたばかりの赤ん坊のように感じる。そう、転ぶのをこわがって、床に座ろうかどうか迷っている赤ん坊のように、、、



お母さんは、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』を熱心に読んでいる。

私もちらちら読んではみたけど、ぜんぜん好きになれなかった。

この本の著者は「自己を否むこと」の大切さを読者に説いている。

ということは、私は、この世での幸せを全部あきらめて、自分の好きなことや願いも放棄しなくちゃならないの?

おお、私は幸せになりたい!苦しむのなんてまっぴら!

そして神様をお喜ばせして、主の姿に似る者に変えられていきたい。

でも私は若くて、それでやっぱりおもしろおかしく愉快に過ごしたいって思う。

ああ、でも証しの本なんかを読むと、そこに登場してくる聖徒たちは皆、いつも神様やキリストのことを黙想していて、私もそうしようって努力するけど、結局、頭は上の空で、、それで私、とにかく落ち込んでしまう。



(その後、ケーティ、カボット牧師にこういった悩みを打ち明けに行く、、)



その2につづきます。




毎週、たった一人で礼拝に来ていらっしゃるAさん。

何週間も、何カ月も、そして何年も。


礼拝で恵まれ、仲間と祈り合い、

そして、、さみしい家路に着きます。


「私の無言のふるまいによって、

いつか主人が神のものとされますように。」


でも、、その「いつか」はいつまで経っても来るように見えず、

むしろ、事態はますます望ましくない方向に

いっているようにさえ感じます。


「これは私のせい?私が愛のないクリスチャンだから?

ああ、さみしい。どうして彼は心を閉ざしているんだろう。」


「お酒やたばこやこの世的な余興にふける彼を裁かず、

やさしく受け入れてあげようって努めています。本当に、心から。」


「でも、やっぱり裁いてしまうんです。

そしてそうやって裁いてしまう自分が嫌で嫌でたまらないんです。


それでイエス様に赦しを求めます。

でも、次の瞬間には、またこの世的な彼を裁く自分がいます。

その繰り返しです。毎日、毎日。」


「だから、私は自分のことを落伍者のように思っています。

とてもつらいです。」


☆☆

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もう頑張れないように感じます。

そして、凍り付いたようになって、

私は今たたずんでいます。


主に、「忍耐する心をお与えください」と祈ってきました。

そしてこの祈りは地に落ちることはないと信じています。


でも、もう今までのようにできそうもありません。


主の木々は豊かに樹液をたたえています。

そしてそこに鳥たちが巣を作っています。


それなのに、、私の樹液は凍り付いています。

きっと、こんな冷たい枝には

どんな鳥も住み家を作れないことでしょう。

☆☆

しかし主よ。

さむざむとしたこの寂寥の内にいるのは、

私だけではないことを知りました。


そうです。私は、他にもたくさんいる

同胞の〈彼女たち〉と共にいます。


私のように凍り付き、悲しみながら、

〈彼女たち〉もまた、

ここにたたずんでいます。


新緑の日々は過ぎ去り、

私たちの目指していたものも、夢も、願いも、

こなごなに砕かれました。


おお、わが神よ、

もう一度、あなたの慰めを私に与えてください。


私の魂をこの監獄から引き出してください。

そして再び、あなたに賛美を捧げさせてください。


あなたに向かって、私は自分の魂を注ぎ出します。

主よ、どうか私を憐れんでください。


人のなぐさみ言葉は、

もはや私を助けることができません。


ですから、どうか主よ、

あなたご自身が、私にお語りください。


おお主よ、私から遠く離れないでください。

わが神よ。急いで私を助けてください。


―――


娘よ。

安心してこちらに来なさい。


わたしの御国は、心くずおれ、砕かれた者、

心まずしき者のものだからです。


悲しむ者よ、来なさい。

その人は慰められるからです。


あなたが転ぶとき、つまずくとき、

わたしがあなたを抱き上げます。


失敗しても、

失敗しつづけても、

なおも、わたしはあなたを引き上げます。


「あなたの夫は、あなたを造った者」(イザヤ54:5)。


心に悲しみのある者よ、

苦しめられ、もてあそばれ、

慰められなかった娘よ、

愛に渇いている者よ、


わたしの元に来なさい。


安心して、今、来なさい。



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「クリスチャン女性が神学的な意見を述べたり書いたりすることは、望ましくない行為なのでしょうか?」という前回の記事をお読みになった方はお分かりだと思いますが、仲間の姉妹たちからの建設的な批判を受け、私は今、女性としての自らのあり方を反省しています。

☆☆

反省していく中で気づかされたのは、私たち女性に与えられている属性の一つであるfeminine delicacy(女性らしい繊細さ)というのが、想像以上に自分の存在の中心部分にあるということでした。

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(ほそく小さいこと、ほっそりしていること、感情などがこまやかなこと、か細い、しとやか、modest、gentle、graceful、finer feelings、sensitivityなど)



そして、それは御言葉が「妻が女性であって、自分(=夫)よりも弱い器だということ」(1ペテロ3:7)と明記しているように、私たち女性が生来、男性よりも弱い器(weaker vessel)であるということと無関係ではないと思います。

誰かよりも「弱い」ということは不徳ではありません。

むしろ、聖書が一貫して教えているのは、主は弱いものをないがしろにされず、より一層のケアをもって、それらを守り慈しんでくださるということではないかと思います。(1コリント1、12章等)

例えば、日本にヒナスミレという花があります。「スミレのプリンセス」と呼ばれているかわいらしい花です。

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ヒナスミレ、source

ヒナスミレは山中のやや湿り気の多いところにひっそりと咲きます。

和名の雛スミレは、全体に繊細で花が美しく、かわいらしいところから名づけられたもの。

透明感のある淡い紅色の花は楚々とした印象を与えますが、葉の形も美しく、全体に低く小ぶりな姿が愛らしく、

3月中頃から咲き始めるため「雛」スミレと呼ばれるのもわかりますね。

引用元:ココ



スミレは、とうもろこしの木などに比べると確かに、弱く、小さく、繊細で、人の一足でたちまち踏みにじられてしまうような脆さをもつ植物だと思います。

でも、、、それは不徳なことなのでしょうか?

スミレは頑張って頑張って、とうもろこしのような強靭さを持つべく、自らを「鍛え」なければならないのでしょうか?

この問いに対して、セキュラーな高等教育機関は、一斉に「Yes!」と答えます。

曰く、これからは、スミレも、とうもろこしの木と「対等に」肩を並べ、活躍してゆくべきなのだと。

そしてこの視点に沿って、さまざまな教育プログラムが導入されます。

私は日本の一般的な高等教育ではなく、米国式のリベラル・アーツ教育を受けましたので、スミレととうもろこしが「対等に」ディベートし、ディスカッションするというのは自分にとって、ごくごく当たり前の光景でした。

Class participation(クラスでのディスカッションへの積極性)は、成績評価の一部でしたし、しおらしく静かにしている日本人女子学生は、総じて「英語力がない」もしくは「英語力はあっても、自分の意見を持っていない人」という否定的評価を受けていました。

☆☆

でも、私の中の〈スミレ性〉は、これまでもずっと呻いていました。そして今に至るまでその完全なる出口を求め、手を天にさしのべています。

「私はスミレのままでいたい。」―そう願ってやまないのです。

Feminine delicacy(女性らしい繊細さ)への気づきは、その意味で、私という一女性を、神様の元々のデザインに回復させようとする御霊の働きなのだと思います。





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Elisabeth Elliot, Let Me Be A Woman, Chapter 19, Is Submission Stifling?より抜粋


恭順な女性とは、「思慮もなく、ただはいはいと従うことしかできない種類の人たち」なのでしょうか。

女性解放論者といわれる人々によってそのような批判が出されていますが、そういった批判は誤ったアンチテーゼを作り出す結果を生んでいます。

これは旧来の政治的戦法であり、相手にそのようなレッテルを貼ることにより一時的に自らの陣地を強化できたように思えるのですが、究極的には、それは自らを破壊していくものとなります。

☆☆

折しも先日、この混沌状態を如実に表すような一通の手紙が私の元に届きました。

少し前に、「解放についてのクリスチャンの見解」と題し、娘の大学で(特別優等生に選ばれた学生たちを対象に)講演を頼まれたのです。

その際に、当日、その場にいた卒業生の一人が、私に対する抗議文を大学側に提出してこられ、そのコピーが大学事務局から私の方に転送されてきたのです。

その抗議文には次のようなことが書かれていました。

「大学を最優秀の成績で卒業したばかりの女性たちに向かい、

『あなたがたの最大の満たしは、結婚という枠組みの中で一人の男性に恭順に従うことにあります。』

と言ってのける講演者を――こんなご時勢に――招待したとはまったく驚くべきことです。

一世紀前でも、こんな発言は言語道断だったのではないかと思います!

もしも私たち女子学生の主たる召命が母親業なのだとしたら、なぜこの大学は女性に高等教育など施しているのでしょうか?

キリスト教界にいる知的な女性たちは、ただでさえ困難で傷の多い所に置かれているのです。

彼女たちに必要なのはむしろ励ましであって、息苦しい締め付けではありません。

私は個人的に彼女(エリザベス・エリオット女史)の成した業績に感銘を受けていました。

しかし彼女が言っているメッセージというかレトリックがこれほどまでに実際と矛盾しているのを耳にすると、混乱を覚えます。

少なくとも私たちのようにこの道を歩んできた者にとって、彼女のような存在は「矛盾を抱えた模範者(role model)」と言わざるをえません。

本当に、今まさにこの道を闊歩しようとしている私たち卒業生にとって、彼女は深刻に混乱をもたらす存在です。」



このレターの書き手は、抗議の印として、本年度の大学寄付金を取りやめ、さらに、「大学側の講演者の選択は、『とりわけ不適切であった』」とつけ加えていました。

☆☆

私は今まで一度も、自分が「矛盾を抱えた模範者」だと思ったことはありませんでした。

いや、自分が誰かの模範的存在になっていると考えたことすらなかったと言えましょう。

私のレトリックは自分のやってきた事と矛盾しているのでしょうか。

私が言ってきたことは、「キリスト教界にいる知的な女性たち」を息苦しくさせ、締め付けるような内容だったのでしょうか。

☆☆

私はこういった批判について熟考してみました。

もしも「母親というのは本を書いたりすべきでない」のなら、たしかに私は「矛盾を抱えた模範者」なのかもしれません。

もしくは「恭順な妻が大学の講堂で話をするよう求められるはずがない」し、「大卒の女性が家の仕事を好むなどというのありえない」のなら、私は確かに「矛盾を抱えた模範者」でしょう。

☆☆

しかし、自分のなした「業績」と矛盾しているのは、はたして私のレトリックなのでしょうか。

それともこの女性自身のレトリックなのでしょうか。(彼女は対等主義的な両性の平等について著述・講演活動を行なっています。)

私が、「あなたがたの最大の満たしは、結婚という枠組みの中で一人の男性に恭順に従うことにあります。」という時、もちろん、対象として述べているのは、あくまで神様から結婚の賜物をいただいている女性たちのことです。

そして彼女の最大の満たしは、――その召命に従順である――その行為の中に見いだされるものです。

☆☆

しかしこれは、神様のくださる他の賜物を否定したり、軽んじたりすることではありません。

私は宣教師として、また著述家としての召命を受けています。

しかし何物であれ、「女性というのが本来、男性のために造られた」という根源的な事実に対する認識および任務に匹敵するものはないでしょう。

それにこれは自分のこしらえた思想ではありません。――これら全ては聖書から導き出されたものです!

☆☆

私が言うこれらのメッセージを聞いて「息苦しさを覚え、締め付けられるように感じる」、「知的な」女性たちは、聖書の意味する自由について、まだ理解することができていないのかもしれません。

神の奉仕は、私たちの祈祷書のいう通り、「全き自由」です。

「母親たちには大学教育は必要ない」という先ほどの女性の見解にとまどいを覚えています。

彼女は問うています。「それなら、この大学は何のために女性に高等教育を授けているのですか?」と。

もちろん、それは、神様が私たちに与えてくださった賜物を引き出すdraw out)〔educateの語源:ラテン語educatus.「e-(外へ)+-duc(導く)+-ate=能力を導き出すようにする」〕ことにあるのです。


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娘のヴァレリーへ

「もし、あなたがこういった光の下に、女性であること(womanhood)の意味を理解するなら、あなたは命の満たしを体験するようになるでしょう。

女性であることに対する神の召命に耳を傾けてごらんなさい。

その使命に従順になりなさい。

そして自らの内にあるエネルギーを奉仕に注ぎ込みなさい。

あなたに任せられた奉仕は、夫に対するもの、あるいは夫や家族に仕えることを通し、世界に仕えていくような種類のものかもしれません。

あるいは、神の摂理の下、仕えるべき召命のために、あなたは夫や家族を持たず、独身としてとどまらなければならないのかもしれません。

その場合も、あなたは命の満たし、自由の満たし、そして喜びの満たしを体験していくでしょう。」

Chapter49, Love Means a Crossより抄訳






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なぜクリスチャン女性は、「静かにしていること」が求められているのでしょう?

これについて私は次のように考えています。それは「女性は惑わされてしまい、あやまちを犯した」からです。(1テモテ2:14)

もちろん、私自身、女性として、自分が「容易に惑わされる」とは思いたくありませんし、実際、何人かの周りの男性たちに比べ、自分の方がより明確に物事を捉えていると思える時もあります。

でも、聖書的に考えるのだとしたら(1テモテ2:11-15)、やはり、私たち女性は男性の方々よりも、より容易に惑わされる傾向にあることを認めなければならないと思います。

なぜでしょう?それは私たち女性が理性よりも感情によって動かされやすいから、、、なのでしょうか?



私がブログ上で神学的なトピックに触れたり、自分の見解を言い表したりすることに関し、仲間の姉妹が「それは相補主義のクリスチャン女性として望ましくないことなのではないかしら?」と私に語りかけ、冒頭のメッセージを送ってくださいました。

☆☆

私が発見したことは、何かの「--主義」や「--派」の陣営に「所属している」という認識(肩書き)だけでは、人はその主義ないし派の目指している「真のあり方」に肉迫することも、とどまることもできないという事実です。

そこには絶えず、いのちの流れがなければならず、健全さが保たれるためには、それがキリストのからだの中で有機的につながれ、御言葉に照らして検証され、チェックされる必要があることを痛感しています。

その意味で、私は、同じ相補主義の立場にたつ仲間の姉妹が、自分に対し建設的な批判をしてくださっていることに感謝しています。

なぜなら、こういった揺さぶりや挑戦を受けることで、私の中の「相補主義」に刷新がもたらされ、硬直している部分や盲点に光が当てられるからです。

そう、それは「死せる正統知識」として朽ち果ててしまってはならないのです!

☆☆

さて、今日、みなさんと共に考えていきたいのは、この姉妹の投げかけてくださった次の質問です。

「インフォーマルなセッティングでは、私たち女性も神学的なことを話したり書いたりしてもいいのではないかと思っています。それに関しては御霊が個々人をそれぞれの状況において導いてくださると思います。」という私の意見に対して。

しかし、神学的な意見を述べるということで――たといそれがインフォーマルなセッティングであっても――私たちは自らの思想や見解を相手に印象づけ、影響を与えるのではないでしょうか。

そしてそれは、エバがアダムに禁断の実を食べるよう彼に影響をもたらしたことと無関係でしょうか

もちろん、私たちの動機は悪意によるものではありません!でも、そういった私たちの善き意図に反し、(私たちの見解が)人々の道を誤らせる結果になったとしたらどうでしょう。

なぜなら、とどのつまり、それが1テモテ2:11-15で問題にされている憂慮なのではないでしょうか。



新改訳 1テモテ2:11-15

11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。
12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。
13 アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。
14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。
15 しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。



さて、まず私は次の点で、彼女に同意しています。

「1テモテ2:11-15の箇所は、創造の秩序をベースにして述べられた箇所であり、その文脈の中で御霊は『アダムは惑わされなかったけれども、エバは惑わされ、あやまちを犯した』という事実を述べていること。」

福音主義フェミニストの方々の多くは、この聖書の事実に対し「これは女性蔑視だ」と怒り、憤慨しておられますが、私たちには何よりも、聖書のみことば、そしてその真理の前にへりくだる謙遜さが必要だと思います。

そこを忘れて人間的な憤怒やヒューマニズム的平等観念で聖書を裁こうとすると、私たちは霊的盲目になり、道を誤ってしまうことになります。

またそこからありとあらゆる不自然で無理な解釈がこしらえられていくようになり、聖書の真理が曲げられます。

☆☆

しかしながら、今ここで私が問題にしているのは、「アダムは惑わされなかったけれども、エバは惑わされて、あやまちを犯した」というこの聖書的事実が、「クリスチャン女性がインフォーマルなセッティングで自分の神学的意見を述べること」をとどまらせる理由になるのか、という点です。

この事について私はいろいろと思いを巡らせました。

そして同じ相補主義の立場におられるメアリー・カスィアン女史(「フェミニストの福音―フェミニズムと教会を結合させようという運動」の著者)にも今日、直接、相談のメールを書き、助言をあおぎました。

みなさんは、どう思われますか?

私は、兄弟姉妹のみなさんの、自由で率直なご意見をうかがいたいと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。




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"But, is it correct for a woman to debate? Is it correct for a woman to involve herself in theological argumentation?": My journey on seeking a balanced complementarianism (here)





教会史は、近代以前の命がけで伝道を行った多くの男性伝道者の名前を挙げています。しかしその陰で、目立たぬ場で仕え続けたクリスチャン女性たちの働きは、ごく一部を除いて忘れ去られています

日本の教会は女性が多いです。そして今日も多くのクリスチャン女性が目立たない場で家族や人たちに仕えています。

こうした女性たちの教会や家庭での働きは多くの場合「普段はあまり注目されることがないけれど、なくなってみて初めてどれほどの大きな働きを担ってくれていたか理解出来る」性質を持っているように思われます。



冒頭のメッセージを私にくださった姉妹は、これを書きながら、我知らず涙を流されたそうです。

そして涙のうちに、同胞の女性たちのためにとりなし祈るよう導かれたと聞きました。彼女の流した涙は、御霊の涙だったと私は思います。

なくなってみて初めてどれほどの大きな働きを担ってくれていたか理解出来る、、なくなってみて初めて、、

愛されていると感じず、認められず、感謝されず、放置され、干からび、力尽きている女性たち。


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それでも 私は 咲こうと思った。
かわいた地のすみっこで。


アスファルトのちいさなすき間が 私のスペース。
これだけが 私のスペースです。


人は私を無意味だといいます。
そうなのでしょうか。


広大な宇宙。
かぎりない時の流れと空間。


その中で生き、動き、存在する 
神の被造物。


はるかに超え、かつ私のうちに在る
主の御霊。


おお主よ、
上にも内にも あなたの宇宙があります。


満ち満ちた霊の流れが
私のうちで 波打っています。



だから私は 今日も咲こうと思います。


どんなに小さくてもいい、ささいなことでもいい、

自分の生き死ぬ この生をとおして、

私は この世に
ひとつぶのメッセージを残して往きたいのです。







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初代教会の時期の男性 (ペルシャ地域)

男女双方に対し、勧告したいことがあります。それは、神のわざ、ならびに神の造られたありさまに勝手に手を加えてはならないということです。――そう、黄色の染め物、黒粉、ルージュ、その他あらゆる種類の化粧品のことを私は言っています。

神は言っておられます。「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」

私たちはおこがましくも、神がお造りになられたものをいじり、変更を加えようとしているのでしょうか?

キプリアヌス(AD250年)、Ante-Nicene Fathers, vol.5, p.434 私訳



キプリアヌス(200-258)は、北アフリカのカルタゴにある教会の牧師でした。彼は当時、激しい迫害下にあったカルタゴ教会を十年以上にわたり、命がけで牧会した後、ついにローマ人の手に捕えられ、殉教しました。

それではこれから皆さんとご一緒に、初代教会のクリスチャンがメイクや装飾品についてどのように考え、どのような姿勢で臨んでいたのか見てみることにしましょう。

同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい。
1テモテ2:9,10

あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ神の御前に価値あるものです。
1ペテロ3:3,4



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19世紀のクリスチャン信徒

婦人たちよ、あなたの着る物ではなく、あなた自身の善い人柄によって、夫に認められるようになりなさい。おお善良な女性たち、「虚栄」という装いから逃げ去りなさい。そういった飾りは、売春宿の女性たちにふさわしいものです。悪しき者に打ち勝ちなさい、おおキリストに属する慎み深い女性たちよ!

コモディアヌス(AD240)、ANF 4. p.214



誠実なクリスチャン女性が装飾するというのは、神の御前に正しいことではありません。あなたは髪を染めています。あなたは目じりに黒でアイシャドーを塗っています。髪をアップにし、眉染めしています。また頬を赤みがかったルージュで染めています。この世のご機嫌を取ろうとしているあなたは、キリストの律法を拒絶しているのです。

コモディアヌス(AD240)、ANF.4, p.215



いくら肉体的に処女性を保っていても、他人の妄想をかき立てるような装いをしている人は、慎み深い女性とはいえません。外見の美にこだわることは、悪しき考えから生み出された巧であるだけでなく、「ゆがみ」であるからです、、なぜ彼女の髪の色は変わったのでしょう。なぜ彼女の目じりは黒みがかっているのでしょう。なぜ彼女の顔は人為的に違ったものへと変えられたのでしょう。

ノヴァティアヌス(AD235)、ANF. 5, p.591



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宗教改革期のクリスチャン女性

「スザンナ〔*LXX聖書の中に登場する女性〕は非常にデリケートな女性でした。」これは彼女がけばけばしい装いをしていたとか、イゼベルのように、さまざまな色のアイシャドーを凝らしていたとか、そういう意味ではありません。ここで意味するデリケートというのは、彼女が、信仰、純潔、清さという心の中にある内なる飾りを持していたということです。

ヒッポリトゥス(AD205)、ANF.5, p.193



おおキリストを信じる女性たち。あなたがたは、この世の女性たちに同化しようとしています。あなたはゴールドやシルク製品で身を包み、、、虚栄心が助長されています。また額に垂れ下がるカールした自分の髪をいじろうと鏡の前にいます。

さらに、あなたはいつわりのメイクをしています。また目の所に吐酒石(antimony、古代の皮膚刺激用軟膏)を塗っています。またいつも黒髪でいられるようにと、白髪染めをしています。しかし、こういったものは、慎み深い女性にとって必要なものではありません。

コモディアヌス(AD240)、ANF.4, p.214



女性たちは、人を誘惑に陥れるような狡猾なもので顔に装いをしてはなりません。むしろ荘重なつつしみ深さをもって、それを、自らの飾りとしなさい。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF.2, p.286



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17世紀のオランダの家族

〔メイクやファッション問題に関し〕この厳格な対処をゆるめるべき状況があることも確かです。例えば、夫が敬虔ではなく、妻に外的装いを求める場合などがそうです。その場合、妻たちは夫を喜ばせるために身を飾ります。しかしその際においても、女性たちがそうする唯一の動機は、「自分の夫を喜ばせるため」という目的に限られるべきです。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF.2, p.285



妻が外面的な装いをしなくなったら、夫の憎しみ反感を買うようになると考えてはいけません。、、信仰ある夫は、そのような美を要求してはいません。なぜなら、私たちは異邦人が美と考えるようなものに対し、彼らと一緒になって、それらに魅了されるようなことはないからです。

テルトゥリアヌス(AD198)、ANF.4, p.20



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初期クェーカーの男性、17世紀

何であれ生まれつきのもの、天来のものは、神のわざです。その一方、人為的に手が加えられたものは、悪魔のわざです。偽りの顔に自分を装うという行為は、クリスチャンの名を名乗る私たちにとって、なんとふさわしくないものでしょう。

私たちには、あらゆる形において、シンプル性が求められているのです。舌でもって偽ることが不法であるように、外見でもって偽ることもまた不法なのです。

テルトゥリアヌス(AD198)、ANF.4, p.21



宝石・ジュエリー等について

宝石類やゴールドにお金をつぎこむより、人間に対してお金を使う方が、どれほど賢明なことでしょうか。、、なぜなら、女性は内なる人がらを飾りとすべきであり、〈内なる女性〉こそが美しくあるべきだからです。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF.2, p.268



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アナバプテストの家族、17世紀

聖書のシンボリズムを理解しない女性たちは、なんとしてでも宝石から離れまいとします。そして次のような驚くべき議論を展開するのです。「神様がせっかく見せてくださっているものを、私が使用してはいけないという法があるのでしょうか?」と。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF.2, p.268



ピアスをするために、耳に穴を開けてはいけません。それは自然にもとる行為です。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF.2, p.270



贅沢さがここまでひどく浸透してきたために、女性だけでなく、今や男性たちも、この病に憑かれ、浅薄な欲求にうつつを抜かしている状態です。

アレクサンドリアのクレメンス(AD195)、ANF.2, p.275



以前には存在してた、あれほど望ましい結婚生活は今、どこに行ってしまったのでしょう。600年余りに渡り、私たちローマ人の間に、離婚はほとんど見られませんでした。しかし現在、女性たちは体中、関節中に、重いゴールドをひっさげているのです。

テルトゥリアヌス(AD198)、ANF.3, p.23



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16-18世紀のクリスチャン女性

なぜ人々の首は、奇妙な石で重くなり、もはや首が隠れんばかりになっているのでしょうか。こういった宝石類の価格は、多くの人の全財産をも上回る高額なものです。

ノヴァティアヌス(AD235)、ANF.5, p.591



宝石類、ドレス、美の誘惑物は、売春婦や慎みのない女性以外、誰にもふさわしくないものです。

キプリアヌス(AD250)、ANF.5, p.433



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メソディストの女性(1912年、アメリカ)



天に故郷を持つ民として生きる


AD130年に、ローマ人に向けクリスチャンのことを説明した文が残っています。最後にこれを引用し、この記事を終わりにさせていただきます。

彼ら(クリスチャン)は、それぞれの国に、ただ単に寄留者として宿っている、、肉にあっても、肉に従って生きてはいない。地上で暮らしてはいるが、彼らは天の民だ。

彼らは定められた法律を遵守していると同時に、その生き方によって、法をはるかに凌いでいる。万民を愛しているが、すべての人に迫害されている。世に知られず、また非難を受けている。

殺されているが、彼らはやがてよみがえる。貧しいようで、多くの者を富ませている。ほとんど何も持っていないが、彼らはすべてにおいて満ち満ちている。

辱しめられているが、まさにその恥辱のうちに栄光を受けている。そして、彼らを憎悪する者は、その憎しむ何らの理由を挙げることができないでいるのだ。

Letter to Diognetus, Chap.5



わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。

真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

ヨハネ17:14、17




数か月前、ある牧師夫妻の家に滞在していた時、奥さま(中東出身の女性牧師の方)が「なぜあなたはメイクをしていないのですか」と訊いてこられました。

簡潔に理由を申し上げたところ、その方は黙って考えにふけっておられました。翌朝、奥さまにお会いしたところ、非常に薄化粧になっておられました。

この奥さまとはメイクのことだけでなく、さまざまな意味で深い精神的交わりの時が与えられ、数日の滞在の間に、私たちの間に深い友情が結ばれた感がありました。

☆☆

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メイクは、一人の女性の霊的・精神的旅路の中で少なからぬ意味をもつ「物」であり「行為」であり「人生哲学」だと思います。

私がこのブログの中で、お化粧のことや慎み深い服装のことを、別カテゴリー化することなく、あくまで「クリスチャン女性の生き方・価値観」のカテゴリーの中に収め続けている理由もそこにあります。

そのすべては有機的につながっており、「化粧は化粧」「内面のことは内面のこと」というようにぶつ切りにはできないと思うからです。

これもその他のテーマと同様、全人格的なかかわりの中において取り組んでいく課題であり、探求だと思います。

☆☆

聖書には、ルツという女性が「(主の)翼の下に避け所を求めて来た」(ルツ2:12b)と描写されています。

私たちの多くは、人には言えない深い劣等感、コンプレックスを内に抱え苦しんでいます。比較、競争、せわしく移り変わる流行、、これらは私たちの心にたえまない不安、焦り、不安定感(insecurity)をもたらします。

しかし、ここに一つの翼があります。不安でどうしようもない私たちを包み込んでくれる力強い翼があります。

この翼は、私たちを無情なこの世の価値基準・レッテル・裁きから守り、私たちの魂をすっぽりと覆ってくれます。

そして御翼に抱かれ、子どものようになった私たちが顔を上げると、そこには慈愛に満ちた主の目があります。なんら偏見をもたず、透きとおったその御目は、あなたを、あなたの魂を見つめておられます。

キリストが十字架にかかり流された血によって義とされ、神の子とされた私たち娘に、この方は語りかけられます。「わが愛する者、美しいひとよ」(雅2:10)。

〈どうせ私はブス。私は不細工でみっともない。私はつまらなく、魅力がない。誰も私のことなんか気にかけてくれない、、、〉

どうか傷ついた娘たちの魂に、「わが愛する者、美しいひとよ」という主の語りかけがありますように。

はかなく表層的なこの世やこの世の価値観ではなく、いつまでも変わらない永遠の岩であるイエス・キリストの内に私たちが真の安定、そしてアイデンティティーを見い出すことができますように。アーメン。



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