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朝露(あさつゆ)


周りの人々から、「まだお腹に赤ちゃんはいないの?」と訊かれることがあります。

「いないです」と答えると、「病院に検査に行ったらどう?」と心からの善意をもって、提案してくださる方もいます。

また、先日、東京にいる姉妹からメールがきて、「○○姉妹も、△△姉妹も皆、結婚したいのに相手が与えられず、かわいそうに、今もまだずっと一人でいる。祈ってほしい。」と彼女たちの苦境を訴えてこられました。

☆☆

1テモテ2:15

しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。



「子を産むことによって救われるであろう」の解釈



上の記事をお読みになってくださればはっきりすると思いますが、ここでパウロのいう「子を産むことによって救われます」を、救いの功績や手段として解釈するのは、福音が啓示する「信仰のみのよる義認」の真理から外れるので、それは違います。

この箇所には複数の解釈が存在しますが、チャールズ・パウエル師は、


⑥女性は母親の役割に忠実であることにより、その報いを天に帰ったときに受ける

⑦女性は母親の役割に忠実であることにより、男女の役割を逆転させる惑わしから解放される

(これは⑤と似ているが、教会という領域を超えて述べられている)



という意味ではないかと捉えており、

子供を産み、子育てを忠実にすることによって、女性は女性ならではの役割を果たすことになり、教会の中でリーダーシップを取らなくても自らの存在価値を十分に高めることになり、役割逆転の惑わしから守られるという意味で、「救われる」と言っているのです。



と解釈しておられます。

(以上「ダビデの日記」「子を産むことによって救われる」とは?1テモテ2:11~15より引用させていただきました。)


私は個人的に、パウエル氏の解釈は正しいのではないかと考えています。

また、たとい氏の説明が「的外れ」だったとしても、1テモテ2章の文脈全体を考えた時、女性が「子どもを産むこと」には、やはり、神様のすばらしい奥義があり、その意味で、ここで使われている「救われる」という動詞には重みと深さがあると思います。

ですから、子どもをお産みになった姉妹のみなさん、よかったですね!そして、これから出産しようとしておられるみなさん、どうぞこのすばらしい務めを喜んでください。応援しています。

☆☆

しかしながら、その一方、さまざまな事情から結婚に導かれていない方や、私のように子どものいない女性たちは、どうすればいいのでしょう。

結婚も、出産も、究極的には主の御手の内にあり、そこには往々にして、私たちにはどうすることもできない状況があります。

このエッセーの中で、私は自分自身の辿ってきた信仰の歩みから、そういった状況の下で悲しみ、うちひしがれている女性のみなさんに一つのsecret(秘伝!)をお伝えしようと思います。


それは、今日みなさんがその状況下にあることは、神のご主権(Sovereignty)から決して外れていないということなんです。


また、もう一つ私が学んだこと――それは、「欠け」はむしろ恵みであり、天への門だということです。

人生になんらかの欠けがある時、それは私たちの心に悲しみをもたらします。

そして、その悲しみは、私たちをしてイエス様の懐へと向かわしめます。なぜなら、そこにおいて、その人は真に慰められるからです。


悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。マタイ5:4




またそういった「欠け」は、私たちに地上の生の不完全さを否が応でも自覚させます。

そして、その自覚は、嘆きという翼を帯びつつ、もはや欠けのない全き世界――上にあるもの、天にあるもの(コロ3:1、2)――へと私たちの思いを引き上げてくれます。

☆☆

ですから、私は喜んで、御言葉に「裁かれ、打ち砕かれ」、御言葉の前に「敗北」しようと思います。

なぜ私はこのようなことを言うのでしょうか?

それは、ここにこそ、「フェミニズムの道」と「聖書的女性の道」を分かつ分岐点があるからです。

「フェミニズムの道」も、傷ついた女性たちの道であることには変わりがありません。

しかしフェミニズムは、私たちを悲しみの人イエスへと導く、こういった命のみことばの前にへりくだることをせず、その反対に、神の言葉に対し――ひそやかな、あるいは大胆な――反旗を翻します。

それは神様の采配に対する、漠然とした「心の苦々しさ」「鬱積(うっせき)感」「ゆううつ」という形を取る場合もあれば、こぶしを突き上げ神に絶叫するような「憤怒」という形を取って現われる場合もあります。

「『女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます』ですって?これこそ家父長的な愚の骨頂さじゃない!いいかげんにしてよ!」と。

私自身、もしもこういう受け取り方をしていたら、今頃は、対岸の岸で反旗の論陣を張り、「情報処理能力」をフルに生かしつつ、保守男性陣のダビデさんたちなんかを「やっつけるような」反論記事を書いたりしていたかもしれません(笑)。


ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。

1コリント15:10a




☆☆


子どもを産むことができないのは悲しみです。

そして、結婚したくてもできない状況――これもまた悲しみです。

私たちはハンナのように主の前に、心を注ぎ出したいと思います(1サム1:15)。

繁栄の神学は、私たちに現世的な報いと満たしを約束します。

しかし、イエスさまの福音は、悲しむ者に、天の希望となぐさめを与えます。

主よ、私たちの人生の「欠け」が、御手の中で、あなたの聖さと美しさを映し出し、やがて他の魂をもなぐさめ富ます、祝福の泉とされていきますように。

アーメン。




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さて、いよいよ夏がやってきますね。スイカがおいしい季節です。

夏は暑いです。

そして暑い時には、なるだけ薄着をしたいと思うのが人間の自然な情ではないかと思います。


この世のささやき


しかしながらこの世は、「今こそ好機」とばかりに、自らの価値観を私たちに吹き込もうとやっきになっている――これもまた事実です。

メディアや女性雑誌、有名タレントなどのイメージを通し、この世は愛嬌を振りまきつつ、私たちに囁きかけます。

「ほら、私たち女性はね、ここまで肌を露出したって平気なんですよ。最近ではみんなそういう風なファッションしてますから、あなたも気兼ねすることなく自由にやっていいんです。

ほら、賛美リーダーの○○姉妹だって、ああいう服を着て、清い心で主を賛美しているじゃないですか。だからいいんです。大切なのは外側ではなく、主を愛する心なんですから。」


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三十年前は、ブラジャーを外に見せるというファッションはあり得ないものでしたが、現在では世界的にそれが「普通のこと」になりつつあります。

そしてそういった一連の潮流は、今日、すさまじい勢いで福音主義教会内にも流れ込んできています。


☆☆

慎み深さの本質が内側にあるというのはその通りだと思います。

このテーマに関し、私は自分自身の恥ずべき過去の失敗も含め、いろいろな証しや記事を書いてきました。

姉妹の服装について―私の告白

死にゆく貞節――女性の視点からみた、服装における慎み深さ

姉妹の慎み深い服装について(その2)ー実践編ー

姉妹の慎み深い服装について―高校生クリスチャンの探究と証し(Modest Dress Testimony)

姉妹のやわらかい言葉づかいについて

初代教会のクリスチャンが「メイク・宝石・ファッション」について語ります。〔シリーズ4〕



また「慎み深さ」というのは、文化圏や時代によっても価値基準が異なっているという点で、ある意味、相対的なものだともいえるでしょう。

例えば、同じ国であっても、サンフランシスコでの「慎み深さ」の基準と、アラバマ州の田舎での「慎み深さ」の基準はやはり異なっているでしょう。

またインドでも、保守的な南インド地域の女性たちと、先進的な北インドの大都会の女性とでは、「慎み深い服装」に対する見方はおそらくかなり違っているはずです。

私は現代の福音主義クリスチャン女性の中では、おそらく(外面的にも内面的にも)かなり保守的な方に属すると思います。

しかし、近所に住むスンニ派のMさんは、外に出る時は、目しか公に出さず、残りの肌はすっぽりチャードルで覆っています。

そうするとどうでしょう。Mさんの「慎み深さ」の基準でいけば、私はおそらく(ふしだらとまではいかなくても)「ちょっと恥知らずな女性」ということになるのだろうと思います。

その意味で、「慎み深い服装」に関し、私たちクリスチャン女性が取り組む際、まず、そこに、型にはまった「規則」というのは存在しないと考えるのが妥当だろうと思います。

しかしその一方、一定の「規則」がないからといって、この問題をほったらかしにしていていいのでしょうか。

御言葉はこのことに関して、どのように言っているのでしょうか。

☆☆

女性の服装に関して、1テモテ2章9節では次のように言っています。

同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り(新改訳)

clothing, modestly and discreetly,(NAS訳)

adorn themselves in modest apparel, with shamefacedness and sobriety(欽定訳)



この節のギリシア語原文をみると、

κοσμίῳ μετὰ αἰδοῦς καὶ σωφροσύνης



となっています。


αιδώς(アイドース)


「控えめ」「modesty」と訳されている原語のαιδώς(アイドース)は、古い古いギリシャ語で、なんとこの語は、前8世紀に書かれたホメロスの叙事詩『イリアス』にも出てくる名詞なんです!すごいですよね。


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新約コイネー期には、αιδώς(アイドース)の意味は、「慎み、遠慮、畏れ、畏敬」という意味で定着していましたが、ホメロスの古典期には、「恥を知る心」という意味で用いられていました。(参:Α.Φραγκούλης, Λεξικό της Αρχαίας Ελληνικής

ですからその意味で、欽定訳のwith shamefacedness(=つつましい、恥ずかしそうな、恥じらいの)という語の選択は、原義の「恥を知る心」のニュアンスをも捉えた見事な訳だと思います。

☆☆

私たちクリスチャン女性が「恥を知る心」、そして健全な意味での「恥じらい」「つつましさ」の霊に満たされる時、そのスピリットは、私たちにある種の服装を選ばせない貞潔さと純真さを与えると思います。

それは文章に書かれた「掟」や「ルール」ではありませんが、御霊は「その基準」を私たちの心の内奥に植えてくださると思います。

そして同じ御霊は、年毎に堕落していくこの世のファッション潮流のかまびすしい騒音とは全く異なる静かな声でもって、次のように私たちを諭してくださると思います。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

ローマ12:2



また、私たち女性のそういった姿勢やあり方は、主の前に清く生きようと日々信仰の戦いをしていらっしゃる男性信者のみなさんに対する隣人愛の顕れの一つだと思います。

男性の方々をつまずかせない慎み深い服装で身をつつむことにより、私たちは真に相手を助け、励ますことができると思います。

これはすばらしいことではないでしょうか。私たちは、自分たちの着る服装という外面的なものを通しても、キリストのからだを建て上げ、みからだに奉仕することができるのです!

どうか私たちのすべてを通して、主に栄光が帰されますように。アーメン。



For mothers and new-born babies,

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ほら、ここにちいさな お口がある。

ママはたくさんキスしてあげましょうね。



そしてほら、ここには二つのかわいい お足。

このお足は、やがて
パタパタ走り回りながら、

わが家で
音楽を奏でることでしょう。




ほら、ここにひとつの魂がいる。

――神のために整えられるべき魂が。



そしてこの魂を宿す小さな体は、

どんな犠牲を払ってでも 
愛おしみ守ってあげるべきもの。



なぜなら、魂は、〈王〉の住むべき
尊い宿り場であるから。



これからはもう、

外でのお友だちにあまり会えなくなることでしょう。



でも私はそれらすべてにまさる 

かけがえのない一つの宝を得ました。



そうなの、私のいとしい赤ちゃん。

ママの心にようこそ。


――ママの時間に、
力に、
健康に、
優しいいたわりとケアに、

そして 生涯つづいていくママの祈りの中に 
ようこそ!



Elizabeth Prentiss, from Stepping Heavenward
私訳




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子育てをしていらっしゃる姉妹のみなさん、応援しています!

日本の文化の中では、なかなかストレートに愛情表現することがむずかしいかもしれません。でも、ぜひ今日、お子さんにあなたの愛を素直に表現してあげてください。

今その子は神様から離れているかもしれません。子どもとの会話が成り立たないさみしい状況にあってあなたは現在、人知れず苦しんでいらっしゃるかもしれません。失望の連続であなたはもう立ち上がる力さえ失っておられるかもしれません。でも、純朴でシンプルな愛の表現は、固く閉ざされた城門を越える〈道〉をおのずから知っています。

小さなメモ紙にでもいい、「お母さんはね、○○ちゃん(君)のことを本当にいとしく思っているよ。大好きだよ。生きていてくれてありがとう。」――そう置き手紙をしてみませんか?




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南フランスの自然


:カロリーヌさん、こんにちは。(彼女の自己紹介はこの記事の中にあります。)


カロ:Kinuko、私はあなたの書いた記事(=「クリスチャン女性が神学的な意見を述べたり書いたりすることは、望ましくない行為なのでしょうか?」(ココ)(here))を読みました。

おお、あなたがこの記事の中で吐露している葛藤こそ、まさに自分の抱えていた葛藤でした。

私は自分のフランス語ブログの中で、聖書的な女性らしさや恭順について書いていました。

でもその大切さを求めていく過程で、――例えば、「慎み深さ」「恭順」「祈りのベール」といったテーマで――どうしても神学的な内容に触れざるを得ず、それに関連する聖書の学びについても書く必要を感じました。

こうして私の中に葛藤が始まりました。そしてついに昨年、私はブログを閉じることに決心したのです。

☆☆

その一方、私はまた別のことも考え始めていました。

それは、男性だけでなく、女性も預言者として召されているのではないかということです。

そして、、、そして、、預言者は黙っていることなどできないのです!!

預言者は神さまからいただいた幻に心燃やされ、キリストのみからだに警告を与え、霊的真理を知らせ、人々の心に覚醒を起こす使命を帯びていると思います。

でも、そういった点(女性が沈黙すべき時とそうでない時)がいったいどこに境界線を持っているのか、、、それを識別することは容易ではありません。

でも私は次のことを信じています。――それは、男性の方々を支配することなしに、私たち女性が自分たちの知的能力や霊的な賜物をフルに主に用いていただく、、そのような「神の道」があるはずだということです。

主よ、どうか私たちを迷いの内にとどめないでください。そして私たちの問いに答えてください。


:ルーシーさんのインタビュー記事を読みましたね。この記事を読んでカロリーヌさんはどう思いましたか?率直な感想を教えてください。


カロ:ええ、「私たちがたどり着いた結論は、やはり、女性が神学的な議論にかかわるのは聖書的ではないということです。」という姉妹のお言葉を、私は神様を畏れる心を持ち、謹んで聞きました。

しかし、私はこの点に関するさらなる説明を求め、心が飢え渇いています。

この点で私はもっと話し合いやディスカッションを求めており、聖句を求めています。

なぜなら、この見解を支えている基盤がどこにあるのかが分からなければ、私はこの結論を受け入れることができないからです。

姉妹はおっしゃいました。「導き、リーダーシップを取るのは男性の役割です」と。私はこれに完全に同意します。

しかし、「神学的な議論や話し合いというのがとりもなおさずリーダーシップの問題に直結する」というその主張の根拠がどこにあるのか、私にはよく分かりません。

ですから、「女性にはリーダーシップを取ることが許されていないから、女性は神学的な議論や話し合いに参じることはできない」という理由づけだけでは私には不十分なのです。

ですから、繰り返しになりますが、神学上の議論というのがはたしてリーダーシップの問題と直結している行為であるのかどうか、まずその点に対するさらなる説明を私は欲しています。

とはいえ、ある種の「神学的議論(意見交換)」は実際に、男性の方々のみに適しているのかもしれません。

しかしながら、また別の神学的テーマについて言えば、これは女性にも適しているのかもしれません。

つまり、このイシューは、100%「黒」、ないしは100%「白」という感じでは割り切れない種類の問題なのかもしれないと思います。

そして、、、私は思うんです。この問題に関して、神様はあえてそれが「グレー」の領域であるように意図されたのではないかしらと。

☆☆

おそらくこれを明確なる「黒」路線でおし進めていくと、その教会には自発性のない、消極的な女性が増えていくかもしれません。

その一方、ある教会が今度は明確なる「白」路線(つまり、『教会の女性たちは境界や制限を取っ払い、御霊の導きによって何だってできるんです!』という路線)をおし進めていくとすると、その教会では、女性たちが男性たちを治めるようになっていくと思います。

そしてその両方とも、聖書の教えから逸脱していると私は思います。

最後に。私はみなさんと共にこの霊的旅路を歩むことができ、本当に感謝しています。

主よ、どうか私たちの問いに答えてください!




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追伸です


カロリーヌ姉妹のこの問いに対して、なにか応答メッセージがある方は、hereに書き込みをお願いします。

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「クリスチャン女性が神学的な意見を述べたり書いたりすることは、望ましくない行為なのでしょうか?」という記事をきっかけに、主はみなさんとのすばらしい分かち合いの時を与えてくださいました。そして、気づいたのが、

)この点で葛藤しているのは自分だけではないということ、

)同じ相補主義、同じベールの姉妹同士であっても、この領域においては若干、それぞれに意見のヴァリエーション(多様性)がある、そして、

)どの姉妹も皆、例外なく、神を畏れ、聖書の教えに忠実でありたいと心から願っている、



という事でした。

またある読者の方が「無理せず、ゆったりと」と言ってくださったことからも、私は時にかなった助けを受けました。(ありがとうございます!)

ですから、こういったグレーゾーンの領域の問題に関しては、なるだけ即断は避け、あわてたdecisionも避け、他の女性たちの視点に耳を傾けつつ、(そして、ちゃっかり彼女たちとの会話も楽しみつつ)、「無理せず、ゆったりと」、御霊の導きを求めていこうと思っています。

この点で、私は今回、ちょっぴり成長できたかも、、しれません。

それでは、これから楽しい二つのインタビュー記事をご紹介します。

最初の姉妹は、50代の既婚女性(アメリカ)、そして次の姉妹は、20代の独身女性(フランス)です。

二人とも、聖書信仰、そして(教会および家庭における男性のリーダーシップを認める)相補的な信仰、そして祈りのベールを実践しているすてきな女性たちです。

視点の異なるお二人のインタビュー記事を、私は今日あえてパラレルにみなさんにご紹介しますね。


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アメリカの美しい自然、ヨセミテ自然公園


:ルーシーさん、読者のみなさんに自己紹介してくださいますか?


:こんにちは。ルーシーと申します。私は米国在住のクリスチャンの妻であり母です。夫ブライアンと結婚して28年になります。

子どもは6人です。男の子が5人と、女の子1人。一番の上の子は26歳で、そして一番下は13歳です。

私たちは小さな無教派の教会に通っています。聖書信仰の教会です。

この教会が真理として保持しているものの一つは「かしら headship」に関する相補的な聖書の教えです。そして、その教えを実生活の中でどのように適用させ、生きていくことができるのかを祈り求めています。

二年ほど前、私はheadcoveringmovement.comというサイトに出会いました。

そこでは1コリント11章1-16節に基づく「かしら」や「被り物」に関する聖書の教えの深い学びがなされています。

そこでKinukoのような被り物を実践する姉妹たちに出会い、彼女たちと友情を深めてきました。

またこういった領域(聖書的男性像・女性像や被り物)で葛藤を覚えている方々が祈りリクエストを提出してくださっており、私たちは毎週月曜日に皆で心を合わせとりなしの祈りをしています。


:ルーシーさん、最近、仲間のみなさんから、「女性はインフォーマルなセッティングであっても(例:ブログ)、神学的な書き物や議論は控えるべきではないでしょうか?」という建設的な批判が私に対してなされています。

私は、本当に心から、神様が元々デザインされた女性へと変えられていきたい、そして聖書的女性像を求めたいって思っています。

でも、自分はクリスチャン・ホームで育ったわけでもなく、これまで身近な所で、相補的なクリスチャン女性の模範をみたこともほとんどありません。

そのため、多くの領域で、正直、ほんと、どうしていいか分からないって思うことがよくあるんです。

そこで、ルーシーさん、私に正直に言ってください。

慎み深いクリスチャン・レディーが、神学的な議論に参じることはやっぱり有害(harmful)なのでしょうか。そうすることで、私たちの女性らしさ(femininity)はダメージを受けるのでしょうか。


: ええ、あなたからのこの問いを受けて、私自身、深く自分の心を探ってみました。

そして主人にもそのことを話しました。そして主人とも話し合った結果、私たちがたどり着いた結論は、やはり、女性が神学的な議論にかかわるのは聖書的ではないということです。

たしかに神さまの目に、私たち女性は非常に価値ある存在であり、聖書全体を通して女性も男性と同じように尊く用いられています。

しかしながら、聖書を断片的にではなく、全体的にみた時、導きリードするのは男性の役割で、恭順であるのが女性の役割だということが御言葉から示されることではないかと私たちは考えています。

「それは有害なのでしょうか?」「それは私の女性らしさ(femininity)にダメージを与えるものなのでしょうか?」・・・・

私の乏しい経験から申し上げますと、、そうですねぇ、、、ええ、神学的なテーマであなたが議論に熱くなることで、やはりあなたの中の女性らしさはダメージを受ける可能性があると思います。

そして議論好きな女性だとみなされてしまうかもしれません。

あるいは主人の言うことに耳を貸さない女性、何が何でも自分の意見を押し通そうとする勝ち気な女性、、、だと。

そしてそれはあなたのご主人に不名誉をもたらしかねません。

また、「彼女のご主人は弱いリーダーシップしか取れないのではないか」という定評を受けるかもしれません。

このテーマは本当に多くの聖書教義を包含していると思います。

私たちがここで触れているのは、聖書の中で述べられている男性および女性の役割に関する非常に広範囲に渡るテーマ領域の一つにすぎないでしょう。

これはとても興味深い学びであり、今日のキリスト教会で今後より一層必要とされてくる教えではないかと思います。

今日の文化潮流にあって、「恭順なクリスチャン女性」というのは大衆受けするスタンスではありません。

しかし私たちは人を喜ばそうとするのではなく、やはり私たちの神様を喜ばすことに心を注ぐべきだと思います。

それを可能にする一つの方法は、主の御言葉に従うことにあると思います。


:率直なご意見をありがとうございます。さて、話はがらっと変わりますが、ルーシーさんのご主人と息子さんたちは、野に行って、食用のためにシカを狩猟しているそうですね!

前から訊こうと思っていたのですが、シカの肉はいったいどんな味がするのでしょう?


:うちの主人も息子たちも皆、ハンターなんです!シカ狩りがほとんどですが、野ウサギや七面鳥を捕る時もあります。

一般に野生の動物の肉は、お店で買う肉類と同じだけの脂肪分は含まれていません。なぜなら、野生動物は草原でとれるものだけを食べているからです。

シカ肉というのは脂身のない肉で、ちょっとドライで独特のにおいがする感じです。

私はたいがい、シカ肉を脂身のある他の肉(例えばベーコン、ロースト・ビーフ)と一緒に調理しています。

そうするとおいしさが増します。そうねえ、ビーフに一番味が似ているかしら?

少しくせのある味なので、なじむのにやや時間がかかるかもしれませんが、一度慣れるや、とってもおいしく感じられるようになりますよ!


:ルーシーさん、ありがとうございました!


(その2)につづきます。

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その1)からのつづきです。


1834年3月17日

今日、私はカボット牧師の所に行った。

でも彼はあいにく外出していたので、奥さまのカボット夫人と少しだけお話しようと思った。

(でも、自分の悩みについて彼女には言わないって心の中で決心しつつ。)

でもでも不思議なことに、カボット夫人は、またたく間にそれを私の内から引き出し、

しかも――夫人はそんな私の悩みを聞いてきっと眉間にしわを寄せ、深刻に憂うだろうって予想していたのに――、

なんと彼女はワッと吹き出し、笑い始めたの。もちろん、すぐに笑い止んだけど。

☆☆

「愛しいケーティ。吹き出してしまってごめんなさいね」と彼女は言いました。

「でもね、私もかつて、そんな取り越し苦労をさんざんしてきてね、、それを思い出したんですよ。

あの時から思うと、人生はね、今、すごく違った風にみえるわ。――本当に違った風に。

ほらね、ある人が最近、畑に種を蒔きました。

でもその人は、自分の畑からすぐに芽が出ないことに驚きショックを受けているの。

なぜって、長い間、労苦し収穫を待ってきたお隣さんの畑にはもう豊かに実が生っているから。

あなたの悩みはそんな感じじゃないかしら?」


「それじゃあ、だんだんと時が経つうちに、私も、周りにいる善良な人たちみたいに感じたり、考えたりできるようになるっていうことですか?」 私は訊ねてみました。


「そうですよ。今ある小さな領域で最善を尽くせばそれでいいんです。

そして神様があなたに与えておられるものに感謝し、それを大切にし、祈り、そして瞳のようにそれをお守りなさい。

気づかないほどわずかではあっても、でも着実に、それは成長していきますよ。」


「でも、私、待ちたくないんです。」 がっかりし、私は彼女に言い放ちました。

「最近、すてきな本を読んでいて、、、小説じゃなく、これまでに実在した聖徒たちの伝記なんです。

それを読んで私、すごく感動しました。

そして私も彼らのような、そんな美しい英雄的資質を持ちたい。

真に崇高で、自己犠牲的な行為に邁進したいって強く思うようになったんです。」


「もちろん、そういう時は来るとは思いますよ。多かれ少なかれ、私たちは皆、自分の望むものを得るものですから。」 夫人は言いました。


「本当にそう思いますか?

それじゃあ、ええと、私が最も望んでいることは何かしら?

ああ、そうそう、私、長居し過ぎてますか?カボット夫人、なにか他に用事があられますか?」


「いいえ。」 彼女はやさしく笑顔で答えました。

「私はね、次のことを体得したんですよ。――今、目の前にいて私を求めている人こそが、私自身の望む人である、と。」


「そう言っていただいてとてもうれしいです。

それじゃあ、お言葉に甘えて。

まず、私は、本当に心底、良くなりたいんです。しかも普通の「良い」のレベルじゃなくて、、その、、」


「尋常でないレベルの『良さ』ですね?」 そう言って、夫人が助け船を出してくださいました。


「ええ、まさにそうなんです。

そして申し分のないほどの幸せを求めています。

それから、もちろん、快適な家。

それに自分のことを愛してくれる友達もいなきゃいけません。

――そう、つまり自分と似たような趣向を持つ友だちのことです。

えっ、、、カボットさん、どうして笑っておられるんですか?

私、何か変なこと言いましたか?」


「いえいえ、あなたのことを笑っているんじゃなくてね、

なんであれすぐに全てを掴むことができると考えがちな、人間のあわれな性質について考えていたんです。

もしも今あなたが言ったようなことが今すぐに全部与えられるとしてごらんなさい。

そしたら、あなたの熱望している英雄的資質(heroism)は、

いったいどこで開拓できるというのですか?」


「そう、そこなんです。そこで私は葛藤しているんです。」


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「もちろん、申し分がないほど幸せで、快適な家でハッピーに過ごし、あなたのことを愛し、ほめてくれる友達に囲まれていたとしたら、、、」


「おお、カボットさん、私、友だちが自分のことを『ほめてくれる』なんて言いませんでした。」


「愛しいケーティ、でも、それが結局、あなたの意味していることだったんじゃない?」


〈うん、、、たしかにそうだったかもしれない。〉 私は心の中で思いました。


「ほら、たくさんのお友だちがいて、尋常でないレベルの良さに恵まれて、

いろいろ美しく魅力的なものに囲まれ、、、

そうすると、あなたの人生は間違いなく、

崇高さを逸する危険に陥ると思いますよ。」


「そんなことになってほしくありません。」 私は深く物思いに沈みながら言いました。


「それじゃあ、仮に、あなたが、毎日の家での小さな日課を、

忠実に、静かに、根気強くこなしていく今の生活に感謝し、

一つ一つの小さなわざを、

神様に対するように為していくと考えてごらんなさい。

そうしていくうちに、おそらく、あなたは

さらなる「英雄的人生」を送るための力を得て行くことができるでしょう。」


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「でも、私、どうしていいかわかりません。」


「家でお母さんに言いつけられた仕事はなにかある、ケーティ?」


「はい。自分の部屋の整理整頓と、

それから、客間のそうじをしなさいってお母さんは私に言ってます。」


「それじゃあ、自分の部屋を、レディーにふさわしく、きちんと片付け、客間のほこりも毎朝、はたくことが大事ですね。」


「ああ、それじゃあ、うちのお母さん、そのことをカボットさんに告げ口していたんですね。」


「いいえ、あなたのお母さんは、この事について私に何もおっしゃっていませんよ。」


「えーと、それなら、、」 そう言って笑い赤面しながら、私は言いました。

「実をいうと、私、部屋の整頓、あまりうまくできていないんです。

しかも、客間のそうじも「する、する」って言いながら、

結局は、母がするはめになっています。」


「お母さんは、イライラされませんか?」


「ええ、もちろん、私のせいで、すごくイライラしてます。」


「それならね、ケーティ。あなたのヒロイズムの第一歩は、まず、

こういった小さな事をしっかりやって、そしてお母さんを喜ばせてあげることですよ。

つまりね、神様をお喜ばせすることの次に大切なあなたの責務は、

お母さんを喜ばせ、そしていろんな方法で、彼女の人生を甘美なものにしてあげることです。

ケーティ、このことを覚えておいてね。

――真のヒロイズムそして自己犠牲の人生は、こういった小さい世界の中で始められ、そこに礎石が置かれなくてはならないっていうことを。」


「神様は、そういったささいなことにも目を留められるのでしょうか?」


「おやまあ、愛しいケーティ。

私が若いクリスチャンに一つの真理を語るとしたら、それはねーー、

神様は、もっともささいな私たちの行ないに目を留められる方であること、

そしてみずぼらしく、ひどくつまらないような種類の小さな奉仕を受け入れてくださり、

もっとも弱々しい祈りにも耳を傾けてくださり、

そして、私たちの断片的で不完全な願いや、良い行ないへの試みでさえも、

親のような愛情をもって配慮してくださるお方であるということです。

おお、どんなに神様が私たちのことを愛しておられるのか、

そのことをほんの少しでも知り始めたのなら、

私たち被造物は、

今とはどれほど違ったあり方をしていることでしょう!」

ーーー

〔帰宅後〕

カボット夫人の言ってくださったことの全部は理解できなかったけど、彼女の言葉によって私は自分がすごく引き上げられるのを感じた。



―以上、Stepping Heavenwardからの引用でした。

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追伸です♡

こういった彼女の霊的旅路を知った上で、もう一度、かの有名な讃美歌More Love To Thee O Christに注目してみてください。

歌詞にこめられた意味が新鮮な光を放ちつつ、私たちの心に響いてくると思います。またこのように一人の魂に働きかけ、成長を助けてくださる神様の御働きに対する感謝と賛美の念が湧き上がってくると思います。






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イエス、最愛のお方。
今、あなたの御答えを
感じていますー
あなたは 
私のものであると!

「このお方は私のもの」―エリザベス・プレンティスの信仰詩より



この詩の作者であるエリザベス・プレンティス(1818-1878)は、有名な讃美歌「いのりまつる」(More Love to Thee, O Christ, 1869、聖歌263)を作った女性でもあります。

このブログでも、主への情熱的な愛や飾らない自分の心情をつづった彼女の信仰詩をすでにいくつか取り上げています。

もっと近くに(Nearer)――エリザベス・プレンティスの詩と祈り

私は悲しみを知っている―エリザベス・プレンティスの信仰詩

夜―エリザベス・プレンティスの信仰詩

谷川の流れを慕い求めて―エリザベス・プレンティスの信仰詩

悲しんでいる姉妹へ―エリザベス・プレンティスの詩

夕暮れ時に、光が宿る!―エリザベス・プレンティスの信仰詩



また彼女は詩作だけにとどまらず、子どもや若者向けの信仰小説も数多く残しています。

今日、みなさんにご紹介したいのは、その中でもまた格別にすばらしい彼女の自伝的小説Stepping Heavenward--One Woman's Journey to Godliness(「天路に向かいつつ―ある女性の霊的旅路」)です。

この小説は、キャサリンという一人の少女の日記で構成されています。

神様のこと、信仰のこと、両親のこと、ノン・クリスチャンの男の子との恋愛と破局、結婚、出産、同居するようになったお舅さんやお姑さんとの緊張関係、病気、子どもとの死別、、といった人生のさまざまな出来事を、感受性豊かな一人の若い女性の視点でとらえています。


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本の表紙の挿絵です。


私が共感するのは、彼女のキャラクターです。

キャサリン(愛称:ケーティ)は、いつも一生懸命です。でもいつも失敗してしまいます。

また、All or nothing的なバランスのなさと、思慮のない勢いが時に彼女にフライングを起こさせ、そして彼女は落ち込みます。

でも、その時々に応じて、牧師さんや、周りの人々が彼女に良い助言を与えてくれたり、助けてくれたりして、そうやって少しずつ彼女は成長していきます。

では実際に、この小説を味わっていただくために、いくつかの箇所を訳して、みなさんにご紹介しますね。

1834年3月14日 ケーティ、 19歳


ああ今日、すごくがっかりした。

もし神様が私を本当に愛していて、私も神様を本当に愛しているのなら、毎日、少しずつ成長してしかるべきじゃない?

でも、向上のきざしなんて、ちっとも見られない。

跪いて祈ろうとしても、何も感じずバカみたいにぼーっとしているか、もしくは「ああ、あれをすべきだった」とか「これから何をしよう?」とか、余計な思いで頭がいっぱいになってしまう。

こういう点において、私みたいな人は、世界中どこを探してもいないんじゃないかなって思う。

そうかと思うとある時には、敬虔な気分になって、滝のように涙を流しながら熱心に祈れたりもする。

そうすると、「ああ、こんな深い祈りをする私を見て、神様はさぞかし喜んでくださったにちがいない」とたちまち、有頂天になる。

そうして意気揚々と階下に降りていくや、召使のスーザンが私の楽譜を別の場所に置いていたことに気づき、それで私は頭にきて彼女に文句を言ってしまった。

ああ、すごく恥ずかしい。

私は自分がよちよち歩きを始めたばかりの赤ん坊のように感じる。そう、転ぶのをこわがって、床に座ろうかどうか迷っている赤ん坊のように、、、



お母さんは、トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』を熱心に読んでいる。

私もちらちら読んではみたけど、ぜんぜん好きになれなかった。

この本の著者は「自己を否むこと」の大切さを読者に説いている。

ということは、私は、この世での幸せを全部あきらめて、自分の好きなことや願いも放棄しなくちゃならないの?

おお、私は幸せになりたい!苦しむのなんてまっぴら!

そして神様をお喜ばせして、主の姿に似る者に変えられていきたい。

でも私は若くて、それでやっぱりおもしろおかしく愉快に過ごしたいって思う。

ああ、でも証しの本なんかを読むと、そこに登場してくる聖徒たちは皆、いつも神様やキリストのことを黙想していて、私もそうしようって努力するけど、結局、頭は上の空で、、それで私、とにかく落ち込んでしまう。



(その後、ケーティ、カボット牧師にこういった悩みを打ち明けに行く、、)



その2につづきます。




毎週、たった一人で礼拝に来ていらっしゃるAさん。

何週間も、何カ月も、そして何年も。


礼拝で恵まれ、仲間と祈り合い、

そして、、さみしい家路に着きます。


「私の無言のふるまいによって、

いつか主人が神のものとされますように。」


でも、、その「いつか」はいつまで経っても来るように見えず、

むしろ、事態はますます望ましくない方向に

いっているようにさえ感じます。


「これは私のせい?私が愛のないクリスチャンだから?

ああ、さみしい。どうして彼は心を閉ざしているんだろう。」


「お酒やたばこやこの世的な余興にふける彼を裁かず、

やさしく受け入れてあげようって努めています。本当に、心から。」


「でも、やっぱり裁いてしまうんです。

そしてそうやって裁いてしまう自分が嫌で嫌でたまらないんです。


それでイエス様に赦しを求めます。

でも、次の瞬間には、またこの世的な彼を裁く自分がいます。

その繰り返しです。毎日、毎日。」


「だから、私は自分のことを落伍者のように思っています。

とてもつらいです。」


☆☆

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もう頑張れないように感じます。

そして、凍り付いたようになって、

私は今たたずんでいます。


主に、「忍耐する心をお与えください」と祈ってきました。

そしてこの祈りは地に落ちることはないと信じています。


でも、もう今までのようにできそうもありません。


主の木々は豊かに樹液をたたえています。

そしてそこに鳥たちが巣を作っています。


それなのに、、私の樹液は凍り付いています。

きっと、こんな冷たい枝には

どんな鳥も住み家を作れないことでしょう。

☆☆

しかし主よ。

さむざむとしたこの寂寥の内にいるのは、

私だけではないことを知りました。


そうです。私は、他にもたくさんいる

同胞の〈彼女たち〉と共にいます。


私のように凍り付き、悲しみながら、

〈彼女たち〉もまた、

ここにたたずんでいます。


新緑の日々は過ぎ去り、

私たちの目指していたものも、夢も、願いも、

こなごなに砕かれました。


おお、わが神よ、

もう一度、あなたの慰めを私に与えてください。


私の魂をこの監獄から引き出してください。

そして再び、あなたに賛美を捧げさせてください。


あなたに向かって、私は自分の魂を注ぎ出します。

主よ、どうか私を憐れんでください。


人のなぐさみ言葉は、

もはや私を助けることができません。


ですから、どうか主よ、

あなたご自身が、私にお語りください。


おお主よ、私から遠く離れないでください。

わが神よ。急いで私を助けてください。


―――


娘よ。

安心してこちらに来なさい。


わたしの御国は、心くずおれ、砕かれた者、

心まずしき者のものだからです。


悲しむ者よ、来なさい。

その人は慰められるからです。


あなたが転ぶとき、つまずくとき、

わたしがあなたを抱き上げます。


失敗しても、

失敗しつづけても、

なおも、わたしはあなたを引き上げます。


「あなたの夫は、あなたを造った者」(イザヤ54:5)。


心に悲しみのある者よ、

苦しめられ、もてあそばれ、

慰められなかった娘よ、

愛に渇いている者よ、


わたしの元に来なさい。


安心して、今、来なさい。



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「クリスチャン女性が神学的な意見を述べたり書いたりすることは、望ましくない行為なのでしょうか?」という前回の記事をお読みになった方はお分かりだと思いますが、仲間の姉妹たちからの建設的な批判を受け、私は今、女性としての自らのあり方を反省しています。

☆☆

反省していく中で気づかされたのは、私たち女性に与えられている属性の一つであるfeminine delicacy(女性らしい繊細さ)というのが、想像以上に自分の存在の中心部分にあるということでした。

delicacy

(ほそく小さいこと、ほっそりしていること、感情などがこまやかなこと、か細い、しとやか、modest、gentle、graceful、finer feelings、sensitivityなど)



そして、それは御言葉が「妻が女性であって、自分(=夫)よりも弱い器だということ」(1ペテロ3:7)と明記しているように、私たち女性が生来、男性よりも弱い器(weaker vessel)であるということと無関係ではないと思います。

誰かよりも「弱い」ということは不徳ではありません。

むしろ、聖書が一貫して教えているのは、主は弱いものをないがしろにされず、より一層のケアをもって、それらを守り慈しんでくださるということではないかと思います。(1コリント1、12章等)

例えば、日本にヒナスミレという花があります。「スミレのプリンセス」と呼ばれているかわいらしい花です。

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ヒナスミレ、source

ヒナスミレは山中のやや湿り気の多いところにひっそりと咲きます。

和名の雛スミレは、全体に繊細で花が美しく、かわいらしいところから名づけられたもの。

透明感のある淡い紅色の花は楚々とした印象を与えますが、葉の形も美しく、全体に低く小ぶりな姿が愛らしく、

3月中頃から咲き始めるため「雛」スミレと呼ばれるのもわかりますね。

引用元:ココ



スミレは、とうもろこしの木などに比べると確かに、弱く、小さく、繊細で、人の一足でたちまち踏みにじられてしまうような脆さをもつ植物だと思います。

でも、、、それは不徳なことなのでしょうか?

スミレは頑張って頑張って、とうもろこしのような強靭さを持つべく、自らを「鍛え」なければならないのでしょうか?

この問いに対して、セキュラーな高等教育機関は、一斉に「Yes!」と答えます。

曰く、これからは、スミレも、とうもろこしの木と「対等に」肩を並べ、活躍してゆくべきなのだと。

そしてこの視点に沿って、さまざまな教育プログラムが導入されます。

私は日本の一般的な高等教育ではなく、米国式のリベラル・アーツ教育を受けましたので、スミレととうもろこしが「対等に」ディベートし、ディスカッションするというのは自分にとって、ごくごく当たり前の光景でした。

Class participation(クラスでのディスカッションへの積極性)は、成績評価の一部でしたし、しおらしく静かにしている日本人女子学生は、総じて「英語力がない」もしくは「英語力はあっても、自分の意見を持っていない人」という否定的評価を受けていました。

☆☆

でも、私の中の〈スミレ性〉は、これまでもずっと呻いていました。そして今に至るまでその完全なる出口を求め、手を天にさしのべています。

「私はスミレのままでいたい。」―そう願ってやまないのです。

Feminine delicacy(女性らしい繊細さ)への気づきは、その意味で、私という一女性を、神様の元々のデザインに回復させようとする御霊の働きなのだと思います。





二日前に、私は「クリスチャン女性が神学的な意見を述べたり書いたりすることは、望ましくない行為なのでしょうか?」という記事を書きました。

その後、兄弟姉妹からお便りや助言をいただき、「インフォーマルなセッティング」というグレーゾーンでは、あくまで個々人が主にきき、御霊の導きを求めていくべきではないかという提言を受けました。

そうして後、祈り、熟考していたのですが、私はやはりこの点で自分が矯正(correct)されなければならないのではないか、と考え始めています。

女性は静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。

1テモテ2:11



「静かにする」be quiet
「よく従う心を持つ」with all subjection
「教えを受ける」learn

教えをめぐって公にそれらを「論駁したり」「議論したり」するのではなく、そこに主要なエネルギーを注ぐのではなく、教えの検証は極力、私的なものとし、「静かに」していることを神様は私に望んでおられるのではないかと考え始めています。

まだいろいろ考えている段階にあり、こういった自省の「実」が今後、具体的にどのような形で表れてくるのかは分かりませんが、私の願いは、主の望まれる女性へと一歩一歩変えられていくことです。

私に助言やコメントをくださった兄弟姉妹のみなさん、ありがとうございます。

そしてこれからもよろしくお願いします。



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