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そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで("Tarry ye here")、目をさましていなさい。」


それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、、


マルコ14:34、35


-----


"Tarry ye here!"
「ここを離れないで。」



おお、悲しみの人が呼んでいる。


暗きこの時、わたしの傍に立つのは誰かと。





おお いざ来たりて われと共に嘆け。
そして 十字架の傍にとどまらんことを。


おお 来て、共に嘆こう。
われわれの救い主イエスが十字架に付けられた。





嘆き告白というのは、今日西洋のクリスチャンの間ではもはや忘れ去られたものとなっています。


そしてそれに代わり、私たちを取り囲む世俗世界の態度を反映するかのごとく、プラグマティックな見解に則ったクリスチャンの行ないが私たちを圧倒しています。


「神に知られている者でありたい」という願い以上に、単なる知識追及がもてはやされているため、〔心砕かれ、罪を嘆く〕告白の姿勢というのは、私たちの間にみられません。




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キリスト教聖画をみますと、両腕を天にかかげ必死に助けを求める姿、嘆願しつつ跪く礼拝者、地のちりの中につっぷし、主の前にくずおれている姿など――


公に、全身全霊でわが身の悲しみ・嘆きを主の前に注ぎ出す姿が見いだされます。



Bruce K. Waltke, The Psalms as Christian Lament, A Historical Commentary






祈り


神の御子、主イエス・キリスト。このような罪びとを憐れみたまえ。


Κυριε Ιησου Χριστε, Υιε του Θεου, ελεησον με την αμαρτωλον!







自分の知り、歌い、詠唱する

あらゆる種類の祈りの中にあって、


一つの祈りが、

たぐいなき力をもって私の内に息づいている。



そう、すばらしいこの一言の祈り。

主よ、憐れみたまえ!




単一にして、切なる嘆願が込められたこの祈り。


私は慈愛に満ちた神に祈る。



ああ、汝の偉大なる御力によって、

この罪びとを救いたまえと。


主よ、憐れみたまえ!




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私は、暴風で荒れ狂う人生の航路を

一人進んでいる。




人生で遭遇する喜び、

そして胸を裂かれるような悲しみの数々。




このような嵐から誰が私を救ってくれようか?



私は一言のこの祈りを祈る。


主よ、憐れみたまえ!」と。





深い絶望の谷の内で慟哭する時、


数々の欲情が私を圧倒する時、




私は心を振り絞り、

力の限り祈り、叫び求める。


主よ、憐れみたまえ!」と。





そしてこの地上での旅路を終える時、


わが魂は、なおもこの祈りを祈ろう。




墓を越え、

永遠の希望をみつめつつ、


主よ、憐れみたまえ!」と。




-Lord Have Mercy,
translated from Russian by Natalia Sheniloff (source)





イエス、わが最愛の救い主。



我を、汝の聖き足跡――

苦悶のうちに汝が泣かれたその道――に

つき従う者とさせたまえ。



おお主よ、


わが人生すべてを汝に捧げさせたまえ。



わがために、かくまで苦しみを忍ばれた汝に

わがすべてを捧げさせたまえ!












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愛する姉妹のみなさん、いつもありがとうございます。


ご存知のように私はすばらしい女性牧会者の元でたくさんの愛と訓育を受け、キリスト信仰の土台および基礎を教えていただきました。


彼女の愛と信仰と忍耐、そして赦しがなければ、今の私は存在しなかったはずです。


また、仲間の女性牧会者のみなさんからも私はこれまで身に余る――ええ、そうです。本当に身に余る――愛とサポートを受けてきました。


私はこのことに関して、どんなに主に感謝しているかわかりません。


それにもかかわらず、私は女性が牧師になるということは聖書の真理に反するという内容の記事を書いております。


このことで、私の心は真っ二つに割れており、人間的な情や絆のことを思うなら、このことに関して、沈黙していたいのです。


しかしながらその一方、この点に関して、私は主の御手に完全に捕えられている感があり、この真理を証しないという道もすべて塞がれ、とにかくこの先、なにが起ころうが、私はこの場所に立ち続け、最後まで立ち続けなければならないという強烈な使命を全身に帯びています。


ですから、どうか理解していただきたいのは、私は個々のみなさんに対して否定的な思いを持っているわけではまったくないということです。


真実はその反対で、私にとって、みなさんは本当にかけがえのない友であり、頼りになるお姉さんであり、信仰の家族です。


しかしながら私はみなさんに対し正直でありたい。そしてそれゆえに、このような手紙を書かざるをえないのです。


そして私は誰に対しても――特に、大切な友に対しては尚さら――free spaceを贈りたいと思っています。


私の所にとどまることはもちろん自由ですし歓迎しますが、上述したような私のスタンスゆえ、どうしても今後、交わりを続けていくのが息苦しく、葛藤を覚え、心苦しいとお感じになった場合、その時にはどうか無理をなさらないでください。You can leave me freely.


それが現在の私の思いです。


この手紙を読んでくださってありがとうございました。


主の祝福が愛する私の友であり姉であるみなさんの上に豊かにありますように。アーメン。








その1その2からの続きです。





束の間の喜び



カイロに到着したガードナーは、驚くべき速さでアラビア語を習得し、エジプト入国後、一年以内に、すでにアラビア語で聖書を説くことができるほどまでになっていました。


いいえ、それだけではありません。友人たちの悲観的予測を打ち破るかのように、最初の数か月で、イエスさまを信じる現地人が複数起こされたのです。





落胆と失意



しかしながら、その時、彼はまだ中東宣教の本当の難しさを知らなかったのです。


ここの宣教地では一見、真実な「実」にみえて、実は「実」ではない――そういうまがい物が多く、しかもそれを見分けるのは至難の業です。


そういった困難にぶち当たったガードナーは、その思いを次のように日記につづっています。



最近、教会の二人のメンバーが背教していった。。。


そして二人とも公の場でキリスト信仰棄教を宣言し、イスラムに回帰した。


そしていつものように、牧師たちを中傷しつつ、教会を去っていったのだ。


イスカリオテのユダの性格は実際、ほんとうにあり得るのだということが、今、僕に初めて分かった。





また婚約者の女性に対しても次のような手紙を書き送っています。



晴れ渡った空のような青年期がもはや永遠に僕の元から去っていってしまったように感じる。


そして、なにか、より物悲しい人生の段階にさしかかったかのようだ。


ああ未来を向こうにも、そこにもまた同じ失望が広がっているような気がする。


――イスラム教に対峙するというこの報われない労苦の日々、厳しい気候、まだまだ未踏で手つかずの開拓分野、そしてなにより、こういったひどい失望の連続。。。


でも、これが僕の選んだ人生だ。おお、主よ、助けたまえ!


そして僕は君にもここに来て、僕と共にこの人生を共有してほしいと願っている。



Constance E. Padwick, Temple Gairdner of Cairo (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 1930), 95





1902年の秋、ガードナーと婚約者マーガレット・ミッシェルは結婚しました。


マーガレットも女性宣教師としてインドに派遣される過程にありましたが、結婚を機に、彼女もカイロに派遣されることになりました。


ガードナーはキーボード奏者で、ヴァイオリン奏者のマーガレットと共に家で賛美コンサートを開きましたが、彼には一つの夢がありました。


それは「いつの日か、この地のキリスト教会で、中東独自のメロディーを奏でた賛美がささげられること」でした。(註1


その当時、そのような考え方を持っていたガードナーは、他の宣教師と比べても一時代先を行っていた感があります。





キリスト教弁証家として




またそれまでの(イスラムに対する)キリスト教弁証のあり方が、どちらかといえば攻撃的でポレミックであったのに対し、


ガードナーが、イスラム教への攻撃よりはむしろ、「彼らがつまずきや疑問を覚えやすいキリスト教の教えや教理に対する説明そのもの」に重点を置いていくアプローチをとったことは注目に値します。


しかしそうではあっても、クリスチャンの福音宣教において、ある種の「対決」は避けられないとして、彼は次のように言っています。



平和的な繊細さはより磨かれなければならない。


しかしここぞという時、この宗教との「対決」は、どうしても避けて通ることはできないと思う。





福音宣教に対し、彼には次のようなモットーがありました。



すべての「議論」や「対話」は、無礼に人を非難するためではなく、むだに比較するためでもなく、まただらだらおしゃべりするためでもなく、あくまでも救霊――このためになされるべきである。





イスラム教徒に対する私たちのメッセージには「歌」の楽譜が必要。


それは論争で音のはずれた楽譜ではなく、むしろ、喜びに満ちた証、そして優しい招きを含んだ音の調べであるべきだ。






助け手の欠乏



ガードナーの宣教人生を通しての最大の悩みは、助け手の欠乏でした。


特に長年の同労者であったダグラス・ソーントンの死後、彼は孤独に耐えながら、多くの仕事――しかも、その多くは直接伝道には関わりのないChurch Missionary Societyのオフィス・ワークであり、それがまた彼には心苦しい点でした――をこなさなければなりませんでした。






キリストのからだの一致を求めて





またガードナーは、宣教地で互いに仲たがいするキリスト教の教団・教派の対立にも心を痛めており、なんとかそこに平和と一致をもたらすよう努めていました。



セクト主義に次ぐセクト主義。。。エスカレートする互いに対する排他精神。


実際、私たちは主の御名によって、互いを破門し合っているではないか!


そしてそんな私たちの様子をイスラム教徒はうんざりした目で見ているのだ!






他の大半の宣教師たちとは違い、ガードナーはコプト教会のクリスチャンたちとも友好な関係を持っていました。


しかしながら、彼はまた一方で、福音伝道に対する情熱をもったコプト教徒の少なさにも心を痛めていました。



ああ、いつの日か、コプト教会内にも宗教改革が起こり、「改革派コプト教会」というのが興されればどんなにいいだろう!


そうすれば、喪失していた教会の最後の楽譜――エヴァンジェリカルな闘志(evangelical militancy)と、普遍性(catholicity)――がついに完結することになると思う。







最大の危機




1914年、ガードナーの牧していた小さな群れにイスラム教徒からの激しい暴動が起こり、彼らは絶体絶命の危機にさらされました。


彼は信者たちを率い、砂漠にある洞窟に入り、そこで群れにみことばをもって勧告し、励ましました。


それは復活祭の時期にも重なっていたため、彼はこの時のことを「黒い聖週」と呼んでいます。



私たちは神の力を祈り求めました。


私たちは一つにまとまっていたため、この時期に背教する者はほんの一人か二人でした、、、


そして今、私たちは再び息を吹き返し、神の御力を信じ、さらに祈っています。


幸いなことに、このような危機に直面していたのは私たちだけではないのです。


この点で、本当に苦難を通らされたのは、1世紀のクリスチャンたちだったと思います。


なぜなら、彼らにはまだ教会史がなかったからです。


その意味で、私たちは、そういった先人たちの証を参考にすることができるわけですから、なんと幸いなことでしょう!







おわりに




ヘンリー・テンプル・ガードナーは、その後も忠実にカイロの地で福音の種を蒔き続け、1928年、数か月肺の病で苦しんだ後、天に召されました。


実用主義的な観点でみれば、彼の長年の労苦はまことに報われない種類のものだったのかも知れません。


しかしながら、イスラム教徒に対する純粋で混じり気のない愛、十字架の愛は、彼の献身の生涯を通し、今も私たちにチャレンジを与えているのではないでしょうか。


――いったい、私やあなたにとって、神の召命、そして聖書の真理は、どのくらい大切なものなのでしょうか。


それは、私たちのすべてを賭けるほどに、それほどに大切なものでしょうか、と。





註1)

《中東独自のメロディーを奏でた賛美の一例》

伝統楽器の調べに合わせ、キリストへの讃歌を詠ったこの信仰詩は内容的にも霊的にもすばらしいと思います。







そして、↓はクリスチャンの吟詠詩ではありませんが、私の祈りは、このような霊の高峰をすでに歴史的に経験的に「知っている」彼ら中東の民が、

――薄っぺらで肉的な流行文化に惑わされることなく――、いよいよまっすぐに高らかに、そして清らかにイエス・キリストへの賛美を歌い上げ、

それによって多くの真摯な求道者たちが、三位一体の神の、言語を絶する美しさ・偉大さ、そして愛に惹きつけられ、救いに導かれることです。












ちょっとした水たまりに あめんぼがいた。





このささやかな生き物は、



英語では

a pond skater
と呼ばれているそう。



池をすいすいと

スケーティングする人。。





学名は、「昆虫綱半翅目アメンボ科の総称」で


Aquarius paludumという


厳めしいラテン語名までついていた。







でも 私は知っている――。




彼は本当はただ a pond skaterって


呼ばれたがっていることを。






だから 私も 



彼をそのようなものとして 見、


呼びかけ、


そして いつくしみたいと思う。







「2世紀および3世紀の信者たちは、どの戦略家も避けようとする戦法――両面作戦を、せねばならなかった。

ローマ帝国が滅ぼしてしまおうとするのに当面して、自己の存立のために戦っていた一方、それと同時に、教会は、教会内での教義の純潔保持のためにも戦っていた。」


―E・ケァンズ 『基督教全史』、p134




昨日のコメント欄での兄弟姉妹との有益な対話を通し、私は初代教会のクリスチャンたちにとった「両面作戦」について思いを馳せざるをえませんでした。


聖書の言葉を、神の言葉と真摯に受け取らないクリスチャンリベラリズムは、真理と神の言葉を探し求める人々にとって、非常に大きな躓きや苦しみをもたらすものです。


断言は出来ないのですが、イエスを預言者として敬う熱心なイスラムの人々にとっても、こうしたリベラリズムは侮辱的に感じられるのではないかと推察します。


キリスト教界、特にプロテスタントでの自由主義神学を信奉する教会の多さはおそらく大きな躓きとなっているでしょう。






十字架の敵



クリスチャンリベラリズムは、いのちの木を内側から腐食させ、この体系を受け入れる人々の信仰をじわじわと、しかし確実な死と破壊へ追いやる、キリスト教最大の脅威の一つであり、「十字架の敵」(ピリピ3:18)だと思います。


プロテスタント自由主義神学と闘い続けたグレシャム・メイチェン氏は、Christianity AND liberalismと――、両者を互いに親和性のない「異なる別箇のもの」として区別していましたが、それは真だと思います。





世俗精神の形態について




さて、その内側の脅威(クリスチャンリベラリズム)ですが、それはこの世の霊やイデオロギーの形をとってキリスト教会内に侵入してくると思います。


しかしここで留意しなければならないのは、そういった世俗精神(この世の霊:the spirit of the world)は、常に同じform(形態、μορφη)をとるとは限らない、ということではないかと思います。


この点についてフランシス・シェーファーは次のような深い洞察をしています。



キリスト者は、この世の精神(霊)に対し、抵抗し続けなければならない。


しかしその際、留意しなければならないのは、世俗精神は、必ずしも常に同じ形態(form)をとるとは限らない、という点である。


だから、クリスチャンは、各時代それぞれの世俗精神が帯びているその形態――、これに抵抗しなければならないのである。


もしもそうしないならば、私たちは何をしたところで、所詮、世俗精神に抗していることにはならないのだ。それは特に私たちの生きるこの世代に当てはまるだろう。


なぜなら、われわれに敵対している諸勢力は、いまや総力体制でこちらに向かってきているからである。


-Francis Schaeffer, The God Who Is There




それでは私たちの生きるこの世代において、世俗精神はいったいどのような形態を帯びて、「今や総力体制で」こちらに進撃しているのでしょうか。


私たちの教会を内側から腐食させようとしている真の脅威はどこにあるのでしょうか。





漏穴はどこにあるのか?




現在、リベラリズム浸食をもたらしている「漏穴」は複数あると思いますが、その中の一つが「福音主義フェミニズム」であることは、もはや疑うことのできない事実であると思います。


というのも、彼らの論議は、かつてのold liberalsの解釈のそれとほぼ同じだからです註1


註1.この点についての詳細研究は、Wayne Grudem, Evangelical Feminism: A New Path to Liberalism?をご参照ください。





またその中でも特に、ケファレー(κεφαλη、かしら)、authenteo(αυθεντεω、権威を持つ)をめぐる論争等は、現在、大砲の飛び交う激戦地であり、これらの聖書的真理は、私たちが死守しなければならない霊の要塞だと思います。


ここが破られると、そこに関連するさまざまなものが総崩れになり、今後、取り返しのつかない惨事がキリスト教会や家庭にもたらされると予想されます。



聖書の真理を教えるための神学研究は、聖書と対立する神学思想と学問的に戦うという姿勢が不可欠であります。


神の言葉の前に中立はあり得ない


それに従うか、逆らうかどちらかであります。


したがって、その聖書を研究する神学もまた、原理的には聖書的か非聖書的かいずれかであります。


より聖書的たらんと努める歴史的改革派神学の研究は、聖書への忠誠から非聖書的神学諸思想に対して敢然と立ち向かい、それらに対する“論争的な”(ポレミックな)神学でなければなりません。


神戸改革派神学校、教育方針(2)より一部抜粋





「神の言葉の前に中立はあり得ない。」


そして神の言葉の前には、――日本の精神風土に満ち満ちる「事なかれ主義」――これもあり得ないと信じます。








関連記事:


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あなたは踏み絵をふみますか?―16世紀のアナバプテストの若者たちの信仰と叫び 【同性愛と福音主義教会】



真理のために立ち上がる(Radicals for Truth)―フランシス・A・シェーファー








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世界の福音宣教化を最も妨害しているのは、キリスト教会の中にいる人々自身である。


―ジョン・R・モット

(ヘンリー・ガードナー青年の献身にあたり、甚大な霊的影響を与えた人物。)






世界宣教へのビジョン



そんな折、二人の米国人伝道者が宣教の必要性を訴え、英国を巡回していました。Student Volunteer Movementのジョン・R・モットと、ロバート・スピールです。



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Robert Speer



二人のメッセージに耳を傾けるガードナーの心は熱く沸き立ち、その日の出来事を、次のように日記に記しました。



聖餐式、、、新しい時代の息吹を感じる、、、夜の集会。スピール氏は、実に油注がれた人物だ。「この世代における世界の福音化。」こんなこと、今まで一度も聞いたことがなかった。


Constance E. Padwick, Temple Gairdner of Cairo (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 1930), p.38, 48






中東宣教への召命



その後、まもなくガードナーは主からの強烈なcalling――それも中東のイスラム教徒に対する福音宣教――を感じるようになり、大学卒業後、自らの人生を主の働きに捧げることにしました。




周囲からの大反対



しかしながら、ガードナーのそういった決心は、両親を始めとする多くの人々の反対にさらされました。


「それはあまりに馬鹿げている。優秀な君のその才能と将来をむざむざ地に埋めてしまうつもりか?それはいくらなんでもひどすぎる。」


ある友人は嘆いてこう言いました。


「みんな彼のことで嘆いている。人生をマホメッド教の人々への福音宣教にかけるという彼の決心のことで。でも僕たちに聞くところによれば、中東伝道とは大変困難なものであるそうだ。一人の改宗者が生まれるために、宣教者たちは何年も労しなければならないと。。」


ヘンリー・マーティンが、宣教地に共に行くことを拒む婚約者リディアか、それとも宣教に賭ける孤独な人生か、という二択を迫られたように、ガードナーも、究極の選択を迫られたのでした。


そして、彼は「神の国とその義」を第一に求める道を選んだのです。


こうして彼は、親友のダグラス・ソーントンと共に、Church Missionary Society (CMS)を通し、エジプトの首都カイロに派遣されました。




つぎに続きます。






【付録】


大学生たちを世界のmission fieldへ ~The Student Volunteer Movementの歩み~



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source




2016年現在、CCC,YWAM,OM,Gospel for Asiaなど多くの(学生)宣教団体が世界規模で宣教活動をしていますが、その運動の口火を切ったのが19世紀後半に米国の大学生たちの間で起こったThe Student Volunteer Movementでした。


1886年夏、大伝道者D・L・ムーディーがマサチューセッツ州のヘルモン山で大学生たちを対象に集会を開いたのですが、その時に炎のような聖霊の働きと促しがあり、一時(いちどき)に100名の学生たちが自らの人生を海外宣教に捧げる決心をしたのです。


この時の劇的な出来事は「The Mount Hermon One Hundred」と呼ばれています。




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The Mount Hermon One Hundred





その後、学生リーダーのロバート・ワイルダーが全米の大学を巡り、さらなるミッション・コールを説くと、まもなく志願者数は、2000名を超えるようになりました。




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Robert Wilder




これはプロテスタント宣教史の中でも驚くべき出来事だといえると思います。


というのも、それ以前、アメリカのプロテスタント全体が送り出していた宣教師は1000名にも満たない数だったからです


1886年から1920年にかけ、SVMは、実に8742名の宣教師を世界に派遣したのです。


(SVMのメンバーでなく間接的に影響を受けた宣教師を含めるなら、その数は1万6000名以上にも及ぶといわれています。)


こういった力強い御霊の働きと流れの中で、ヘンリー・ガードナーという一青年もまた、中東宣教に自らの人生を捧げる決心をしたのです。





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D・L・ムーディー






その他、SVMの青年宣教師たちの一例





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ケンブリッジ大から中国へ向かった7人の若者たち。「ザ・ケンブリッジ・セブン」と呼ばれています。

写真の後列左は、有名なC・T・ストゥッド宣教師。彼はケンブリッジ大の有名なクリケット選手でしたが、献身後、海外宣教に人生を捧げることに決心。他の6人と共に中国に向かいました。






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グレース・ワイルダー(上記のロバート・ワイルダーの姉。20代半ばでインドへ宣教師として向かいました。)





↓画像の中に多くの宣教師たちの写真が出てきます。









はじめに



キリスト教宣教史の中における最初の本格的イスラム伝道は、13世紀、レイモンド・ルール(Raymond Lull)の孤高な試みによってスタートを切ったといっていいでしょう。




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Raymond Lull (1232-1315)



しかしながら、教会史家のステファン・ニールの言葉を借りると、その後の数世紀間というもの、「イスラムの地は、クリスチャン・ミッションからほぼ見放された状態にありました。」註1


註1) Neill, Stephen. A History of Christian Missions. The Pelican History of the Church, Hammondsworth, Middlesex, England: Pelican Books, 1964.



しかし、19世紀後半になって、北インドおよびペルシャに遣わされた聖公会のヘンリー・マーティンが起こされ、その後、他の教派もおずおずと重い腰を上げ始めました。



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Henry Martyn (1781-1812)



そんな中、学生ボランティアのサムエル・ツヴェーマーという23歳の勇敢な若者が立ち上がりました。


この若者はほとんどどこの教派からの理解もサポートもなしに宣教地(アラビア半島)に飛び出して行き、結果として、彼の火のような生涯を通し、他の大型教団すべてが総がかりでも成し遂げられなかったようなこと――


つまり、キリストの福音がイスラムの地に伝えられることの絶対的な必要性――を無数のクリスチャンの心に訴えかけ、台風のような疾風と情熱でアラブ・ミッションに対する人々の姿勢を一転させたのでした。




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Samuel Marinus Zwemer, 1867 – 1952 
「イスラムへの使徒」とも呼ばれています。





サムエル・ツヴェーマーという器を米国ミシガン州で整えていた主は、同じ時期に、スコットランドの地においてもある一人の若者の人生に働きかけていました。


それが今日、この記事で取り上げようとしているヘンリー・ガードナーです。





生い立ち



ウィリアム・ヘンリー・テンプル・ガードナーは、1873年7月、スコットランドのアイルシャー州で生まれました。


父はグラスゴー大学の医学部教授で、いわゆるエリート家庭の子弟として彼は育ちました。



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William Henry Temple Gairdner



両親は福音的な信仰は持っておらず、ガードナー自身も幼少期から青年期にかけ、生きた神との交わりなしにこの世での歩みをしていました。




転機



しかしオックスフォード大学入学後、彼の人生に大きな揺さぶりがかけられました。


その頃、学内にはOxford Inter-Collegiate Christian Unionという福音信仰の学生宣教団体が熱心に活動しており、ガードナーもその感化を受け始めたのです。


しかし彼の「理性的な」目に、彼ら宣教団体の学生たちはあまりに「熱狂的」に映りました。


そこで彼は彼らの輪に入りつつも彼らとは微妙な距離をとることによって、自分はあくまで「静かで」「常識的な」証人になろうと努めました。


しかし彼はそういった自分のあり方に平安を感じることができませんでした。


その当時の心的葛藤を彼は家族に次のように書き送っています。



僕は知っているんです。これ(=キリストの福音)はやがて世界を征服すると。


でも、オックスフォードでは、もし誰かが自分の個人的な確信や熱心さを外に表わそうものなら、とたんに(マイルドな意味での)愚鈍者扱いされてしまう。。。


でもfanaticな奴だと思われるのを覚悟で、今、僕は自分の身の振り方を決めなければいけないような気がしてならない。。


ああ非常に困難を覚える。ここの大学にいると余計にその難しさを感じる。


そんな中、僕は他の人にこう訊かれたんです。「そういうあなた自身は、彼らより優った人物なのですか?」


いや、違う。僕は優ってなんかいない。優っているのはキリストのみ。


Constance E. Padwick, Temple Gairdner of Cairo (London: Society for Promoting Christian Knowledge, 1930), p.29.






つぎに続きます。



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「花はみえないのですが、にもかかわらず香りが庭園中を満たしていました。この場所の美しさと静寂さは神秘的ともいえるものでした。source




みぢろげば木犀の香のたちのぼる   橋本多佳子






木犀(もくせい)Osmanthus fragrans, Sweet tea olive

常緑樹。高さ三メートル余りに達し、枝が多く、葉は密に茂り、甘いにおいを発し、風に乗って50メートル先から匂うほど。





ひろびろとした地に植えられている一本の木犀。落葉の季節にも、常に新しく、そして常にグリーン。


そして甘い香りがその地一帯を満たしています。


私はこの木をみた時にキリストの教会(エクレシア;εκκλησια)を思いました。


キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられ、今日にいたるまで御霊によってこのみからだをきよめ続けてくださっている様子はいかにもこのみずみずしい常緑樹のようではないでしょうか?(エペソ5:26)


また葉もまばらではなく、「密に」茂っており、遠くからみたら、何万とあるはずの個々の葉も互いに溶け合い、ふわふわした大きな綿菓子のようにみえます。


その中の一枚の葉は時々疲れて、いっそのこと落葉したい気持ちになるときがあるかもしれません。しかし仲間の葉たちがそうはさせないのです!



エペソ4:16

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。





ここで使われている「建てられる」はギリシャ語の動詞形でοικοδομω(oikodomeo<oikos 家+demo 建てる)であり、語の中に「家」ということばが盛り込まれています。


ペテロのいうように、私たちは「霊の家 οικος πνευματικος」として築き上げられているのだと思います(1ペテロ2:5参)。


「霊の集合アパート」じゃなくて「霊の家」でよかったです。というのも、「家」の中にともにいる人々はお互いにもはや他人じゃありませんから!


ところで、こんな大きな木犀からはどんな香りがただよっているのでしょう。


きっとキリストのかおり(Ⅱコリ2:15)が、東にも西にも、南にも北にも、あらゆる方向に放たれているにちがいありません。


そう、地の果てにまで――。






その点で使徒パウロは、[臆病な牧師たちと]どんなに違っていたことでしょう!


彼は神の言葉の中で「不人気な」教えのためにしり込みすることなく、反対に果敢に立ち上がりました。


エペソで教会の長老たちに会い、彼らの間で労した3年間の働きを振り返った際も、彼は清い良心をもって次のように言うことができました。


使徒20:26-27

だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。

わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです



「伝えたからです」の「から(for)」という語から分かるのは、ここでパウロが自分がなぜ「だれの血についても、責任がない」のか、その理由を述べているということです。


彼は言います。エペソ教会内のあらゆる失敗に対し、自分は神の前に「責めがない」。なぜなら、私は「ひるむことなく」「神のご計画をすべて(the whole counsel of God)」彼らに伝えたからです、と。


彼は、聖書のある教えが「人々の反感を買うから」という理由で、それを説くことを差し控えるようなことはしませんでした。


そして、そういった教えが「自分に対するバッシング、葛藤、そして衝突を招いてしまう可能性があるから」と言って、教えを説くことを差し控えるようなこともしませんでした。


そうです、パウロは、教えの内容が人気のあるものであろうと、逆に人々の反感を買うようなものであろうと、聖書のあらゆる主題を余すところなく人々に説いたのです。


もしも使徒パウロが今日生きており、こういった諸教会を牧会開拓していたとするなら、彼は、現地の牧会者たちに対し、男女の聖書的役割について、あいまいでお茶を濁すような言い方をするよう勧告するでしょうか。


現在、社会全体で、もっとも論議がなされ、かつ緊急テーマとなっているこのジェンダー問題に関する神のみこころに対し、何も言わず泣き寝入りするようパウロは勧告するでしょうか。


「何も言わなければ物議も醸し出さないし、荒波を立てることもない。。。そうしたら教会内に『平和を保てる』。だから私は黙っていよう。。」


こうしてあなたの「沈黙」により、この論争の決着は、次世代まで引き延ばされることになります。


はたしてパウロはそのような勧告をあなたに出すでしょうか。


「キリストに従うにあたり、私たち信者は割礼を受ける必要がない」とパウロが説教し始めたことを引き金に、ものすごい迫害が起こりました。


ユダヤ人の敵対者たちはパウロを町から町へと追跡し、ある時には彼を石打ちにまでしました。(使徒14:19-23)。


しかしパウロは一歩もひるまず、救いの福音の使信に関し、妥協しませんでした。


そうです、救いは、キリストを信じる信仰「のみ」によるものであって、「信仰と割礼」によるものではないと宣言したのです。


そして後にパウロは、自分が迫害の憂き目にあった諸教会に対し手紙を送った際にも、福音の純粋性を守るよう強調し、次のように書きました。


ガラテヤ1:10

こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。


あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。



教会指導者たちも、そして他のすべての信者たちも、今一人一人が、この問いの前に静まることが大切ではないかと思います。






② 同盟者その2――臆病な牧師たち




対等主義の第二番目の同盟者は、教会指導者たちです。


彼らは、内心、「たしかに聖書は相補主義の教えを説いている」ということを信じています。


しかしながら彼らは臆病者であり、それを堂々と教えたり、その立場を擁護するために声を挙げる勇気に欠けています。


彼らはだんまりを決め込む、「消極的コンプリメンタリアン」です。


自分の所属する組織が、対等主義の圧倒的プレッシャーの元、今や変節の危機にさらされているというこの機におよんで、


彼らは――心の中では「聖書はそんなことを教えていない」と信じているにもかかわらず――次から次に譲歩を重ね、降参していくのです。


これは、リベラルな教団の中にいる保守的信者たちが、同性愛問題に直面した時の状況と類似しています。


実際、非常に多くの人は、「同性愛は非聖書的で間違っている」と心の中では考えているのですが、実際に声を挙げる人は稀です。


こういった同性愛問題に取り組んできた米国福音ルーテル教会のロバート・ベンネ氏はこういった人々の問題について次のように言っています。


話し合いの席には毎回、同性愛を公言している人々も在席しているわけです。


そのためでしょうが、この問題に関してまだ確信が持てていなかったり、普通に善良だったりする人々は、反対の声を挙げたり、修正主義者のアジェンダに対する差し控えを提案するといったことに困難を覚えているようです。


大半の信者たちは、「自分はあくまで礼儀正しく、寛容でありたい」と望んでおり、こうして「愛のうちに和を保ちたい」という願いから、(同性愛肯定に向けた)その修正アジェンダを受け入れていく――そういったケースがしばし見られます。

(World, Aug.2, 2003, p.21)




対等主義化した南部バプテスト連盟(Southern Baptist Convention)を再び相補主義に回復する働きにおいて尽力したリーダーの一人が、何年にも渡る苦闘の末、私に次のように打ち明けてきました。


一連の苦闘における最大の問題は、私たちに反対する穏健派の存在ではなかったのです。いいえ、そうではありませんでした。


むしろ最大の問題は、われわれに同意しつつも、私たちを支えるために声を挙げたり、共に立ち上がることを拒む、そのような保守派信者の存在でした






*ジェンダー論争に関する南部バプテスト連盟の苦闘の歴史についてはこの記事およびこの記事をお読みください。